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英国の結婚は法的な“契約”が1セット

先日、結婚5年目に入った。結婚記念日には記念になることをしようと、蔵前にある銀師(しろがねし)の工房で制作体験。純銀のバングルをつくった。


昨年、出席した夫の兄夫婦の結婚式は、イングランド西北部の湖水地方にある歴史的な建物で式が行われ、その後、バスでその地区の公民館に移動してパーティー(披露宴)という流れ。出席者がみんな前泊・後泊しての3日間の大イベントだった。

結婚式は、新郎の父のスピーチの後に誓いの言葉と指輪の交換、結婚証明書に証人の新郎新婦の母親たちがサイン、続いて本人たちがサインし、退場の新郎新婦にフラワーシャワー。全体的に日本の式のイメージに近かった。

でも、始まってみて驚いた大きな違いは、式を進行し、誓いの言葉を導いたのが役所の職員だったこと。
小さな違和感はありつつも、珍しい異国の結婚式を記録しようと写真をぱしゃぱしゃ撮る私以上に、席を立ってまで写真を激写している人もいたりして式は進んだ。
そして指輪交換の後に小さな事件が起こった。

証明書にサインするシーンを撮ろうとスマホのカメラを向けた私の手を、隣に座っていた義妹(夫の弟の妻)が「NO!」とはたくようにし、スマホを下に向けさせられた。
まるで、つまみ食いしようとした手を「お行儀の悪い!」とぴしゃりとはたかれたような感じ。驚いて固まってしまった。

「ダメって言ってたでしょ。ほかのシーンならどんどん写真を撮っていいけど、サインだけはダメって。最初に説明してたんだよ」。
実は、撮影してしまっている人はいた。それでもダメなものはダメとルールに厳しくて、ショックを受けた私を言い含めるようにして、その場を取りなそうとしてくれた義理の妹は、保育のプロ。20歳も年下の子に叱られ、子どもをなだめるように言われた恥ずかしさと、英語の説明がよく聞き取れなかった情けなさとで、私はすごくしゅんとしてしまった。

写真OKになってももう写真を撮る気になれないくらいへこみながらも、「どうしてダメなの?」と聞いた。そんなに厳しく止めるほどしてはいけない理由は何なのか、とても不思議だった。たとえばスポーツの試合の国歌斉唱で起立するように、「神聖なところだから、敬意を表して居住まいを正しているべき」というようなことならすんなり納得できた。でも、書類にサインってそんなに神聖なのだろうか…?
私がひねり出した解釈は、個人情報の入った公的な書類が写り込んではいけないからなのかなという理屈。後で夫にネット検索してもらったら、実はそれが正解らしい。

でも、「え、当たり前でしょ~」という風情で「すごく大事だからだよ」とだけ答えた義妹はそこまで深くは考えず、ただ「書類へのサインは大切だから」と理解して忠実に従っているようだ。彼女は30歳前の若い世代。それを聞いていた義母も特別に注釈を加えることはなかった。

          ◇     ◆     ◇
夫の両親が結婚したときは、役所の戸籍登記所で小さな結婚式を挙げただけだったと聞いていた。夫が出席したある友達の結婚式は、役所での結婚式の後にレストランでパーティーというケースだったといい、普通に行われているスタイルだそう。役所でも同じように、職員の進行による誓いの言葉などがあるという。逆に言えば、「式」のない婚姻届け提出はないとも言える。「誓って、書類提出」が1セットになっている。
今回の義兄の場合はいわば、会場に役場の人が出張してくれた形。ただ、どこにでも出張してくれるわけではなく、「公認」の会場に限られるとのこと。

結婚式で証人と新郎新婦がサインしていたのは、形式的な宣誓書みたいなものではなく法的な婚姻届けで、その場で職員に受理され、法的な手続きが完了していた。「結婚式」とはつまり、法的に婚姻関係を結ぶもので、それが彼らの結婚の儀式であり、「大事」なことである様子。

この感覚は、婚姻届を「たかが一枚の紙切れ」と言ったりする日本人の感覚とだいぶ違うように思う。信仰が厚いわけではないのに確かに奇妙でも、多くの日本人が神社や教会、寺院などで式を行う。それは、畏れ敬うべき目に見えない力を持つとされる存在の前で、「これから生涯を共にすると決めた」と絆を確認して自分たちに約束する心に重きを置くからではないだろうか。約束の儀式と法的な手続きは別に扱われる。
 
ちなみに、キリスト教の信仰が厚い英国人たちは教会で結婚式を行う。これは、国王(または女王)が英国国教会の元首なので、教会で法律に則った書類へのサインが行うことができるからだそう。なるほど。神に誓う形になっているけれど、法的な手続きがやっぱりセットになっている。

          ◇     ◆     ◇
パーティーでは、日本で言う高砂の新郎新婦の席の両サイドに、新郎新婦の両親が座るのがスタンダードなのだそう。でも今回は双方の両親が離婚していてそれができないので、新郎の弟夫婦と新婦の妹&その恋人が座ることにしたという。
そしてどちらも父親だけ新しい配偶者・パートナー同伴だったので、母親とうまく離すように席次を作るのが大変だったと話していたと聞いた。

ふと思ってしまった。

そんな苦労してまで、盛大なパーティーをするなんてすごいなぁ…私がそんな離婚の多い環境にあったら、結婚は続くかわからないし大変だからやめておこうと思っちゃうな。

そんなふうに感じる私だから、いろんな事情があったなかで実際に結婚式もパーティーもしていないわけだけれど。

私の肌感覚では、日本に比べて、特に親世代は向こうの離婚の数が多い。
今回の新郎新婦の両親だけでなく、義理の妹の両親も、泊めてもらった夫の親友カップルの両親も、旅の途中で会った夫のだいぶ年上の夫の従妹も離婚していた。夫の叔父もだそうだ。婚姻関係が続くほうが珍しいのかなと思えてしまった。

帰国後、友人にそんな私の所感を話したら
「もし離婚しちゃっても、再婚することがあったらまた盛大に披露宴をやるんでしょう」
と言われて、そのときなにか腑に落ちた感じがした。

向こうの結婚がペーパーワークありきなのは、法的な契約の感覚が強いということなのかも。ジェンダー平等が日本より進んでいた背景ともあいまって、婚姻の“契約”を続ける意志のバランスが崩れたら、残念だけど契約関係を解消する、新しい相手が現れたら結婚式でまた契約を結ぶ。そのように「契約」と考えると、心の折り合いがつけやすいのではないだろうか。
もちろん法的な契約をする前に愛があって、離婚後に傷つき、長く引きずっている人もいる。心がないなんてことは決してない。だからこそ、席次の作成が大変だったわけで。

他方、精神性をことさら重視する結婚観においては、関係が壊れてしまっていても、約束を守れない嘘をつく感覚やうしろめたさのようなものも生まれて、気持ちをこじらせやすいように思う。

女性の社会進出の度合いなどの社会的な要因も大きいだろうけれど、この結婚観の違いは離婚への向き合い方の違いに無関係ではない気がする。
そして、心がいちばん大切だからって、「約束したんだから言わなくてもわかるはず」と、結婚後にどんどん愛情表現をしなくなる、日本にありがちと言われる夫婦の形にも。

           ◇     ◆     ◇
自分にも、少し前の日本の結婚観(自説)がしっかり当てはまっている気がする。
結婚を考えて一緒に住み始めたしばらく後、人生の大ピンチに見舞われた私を、まだ「パートナー」だった夫は献身的に支えてくれた。そのおかげで乗り越えることができたとき、私は「必ずしも結婚しなくてもいいのかも」と思った。法的には他人でも共に生きるためにこんなに頑張れたんだから、ずっと一緒にいる意志をお互いじゅうぶん確認できたってことだよね、と。
誓いと法的手続きは私の中でセットではなかった。


夫の意向で婚姻届を提出して、4年。私の振る舞いが「言わなくてもわかるでしょ」になってしまっているのは、大いに反省しなくちゃいけない。

1つずつつくったバングルは、夫は身に着ける習慣がないので私がどちらも着けることに。夫がふたりのイニシャルを刻印したので、私がそれをつなぐ「&」を入れた。“婚姻届は紙切れ一枚”的に気取っているくせに、何かしるしは欲しい。心は見えないから、形ある何かで確認できると安心する。そんな私のひねくれたところが出てしまった。
銀婚式なんてほど遠いのに、だいぶ背伸びしたような銀のバングル。
あと21年、一緒にいられるように願いをこめて。


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