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スイカ割りはとてもむずかしい

最後の花火に今年もなったな――。

フジファブリックの名曲「若者のすべて」のサビのフレーズである。

9月に入り、例年ならそんなことも言えたんだろうな、とふと思う。

今年の花火大会はどれもほとんど中止で、時々上がる花火はどれも、「勇気づけるため」の「サプライズ」だった。

だから、どれを見ても「最後の花火」みたいな「エモさ」はなかった。

そんなこんなでいきなり少しだけ涼しい夜が来て、すっかり秋だね、セプテンバーだね、なんて言ってみたのだった。


今年は、花火に限らず、夏の風物詩のほとんどはお預けだった。

窓から入り込んでくる、騒がしいセミの鳴き声と、ジリジリ焼くような日差しと、べたつく熱気と汗は相変わらずだったが、楽しいものは大半が――。

乃木坂46のオールナイトニッポンで、新内眞衣と賀喜遥香がスイカ割りの話をしていた。

テレビ番組やカラオケで流れる謎の映像でよく見た夏の風物詩である。

砂浜で男女が集まっている。目隠しして棒を持った人がいて、目の前にはスイカが置かれている。周囲の人はその人を応援するが、いっこうにスイカは割れない――。

それについて彼女らは、「やったことある?」と話していた。

そしてそれを聴いて私も、たしかにあれを実際にやったことがある人は、世の何割なのだろう? と思ったのだった。


実を言うと、私は一度だけスイカ割りをしたことがある。

といっても、棒を持つ人としてではない。

棒を持った人に、「右!」とか「もっと前!」とか言う周囲の人たちを、そのまた外縁から眺める人――それはもはや参加しているのか? という疑問はひとまずおこう――としてだ。

だから、今から語る私の見方は、「中心で騒ぐ人」の見方とはもしかしたら大きく異なっているかもしれない。

それでも私は、今後いつかスイカ割りをやろうと思っている方に忠告しておきたいのだ。

スイカ割りは、とても、とてもむずかしい、と――。


ここで言う「むずかしい」は、なにもスイカをちゃんと割ることの難易度について言っているのではない。

スイカ割りは、まずその前提として夏のアウトドアでやるゲームである。

だから、盛り上がりさえすればそれでよいのだ。

それに、ちゃんと割れたスイカが食べたいなら最初からそのように切れば済むのだから、スイカ割りをした後になって「形が不揃いだ」などと文句をつけるなら、それはお門違いというものだ。

問題は、スイカ割りそのものが盛り下がりやすいという、ゲームの構造上の欠陥である。


まず、すぐにスイカが割れる場合。

これはもう最悪である。

参加者は、「お前何やってんだよ!」とか「もっと左だよ!」とか言いたいのだから、ある程度スイカは割れないでいてくれないと困る。

ただしこれは、目隠しという状況を鑑みると、あまり起こらないのではないか、と推測される。特に、事前にぐるぐるバットなどで平衡感覚を狂わせている場合はなおさらだ。

より問題なのは、なかなか割れない場合だ。これもなかなかにしんどい。

もうその頃にはガヤを入れるのにも飽きて、「早く割れよ」と思うばかりである。しかし、棒を持った人は目隠しされているため、声なしにはスイカを割ることは役割上できない。足で位置を探るのは勿論ご法度である。

目隠しをされた人は、周囲の声が少なくなったことや、ガヤに少し怒りや疲れがまじり始めたことに怯えるが、しかし、ここでスタスタと歩いて割りに行くのこともやはりできない。

そんなこんなで、棒を持った人は孤立無援の立場に立たされる。そしてそうなればなるほど、スイカは割りづらくなっていく。

するとゲームの時間はどんどん長くなる。もう興も醒めているのに――。


要するに、「ちょうどよいこと」が大事なのだ。

ちょうどよい時間でスイカが割れてくれること。

そのためには、周囲の参加者が、「もう頃合いだな」と思っったタイミングで、棒を持った人がスイカを割れるよう指示を出す必要がある。

しかし、目隠しをした状態である棒持つ人がその指示を正確に実践できる保証はない。

それに指示を出す方も、様々な角度からいろいろな人が好きなことを言うだろうし、そもそもその指示だって正確である保証がない。

この2つのせいで、スイカ割りというゲームは「ちょうどよいこと」が大事なはずなのに、意図したタイミングで終わらないのだ。


かくしてスイカ割りは、どこかで盛り下がりを孕んでしまう。

このゲームを、ちゃんと盛り上がったまま終わらせることは、とてもむずかしいのだ。

編集された映像みたいにはうまくいかない。


救いなのは、それでも終わればスイカを食べられることである。

美味しいものを食べれば、誰しも少しは機嫌がよくなるものだ。

そう考えると、スイカを割るというのはなかなか理に適っている。

ここで最悪なのは、そのスイカがまずかった場合だ。

ガス抜きのはずのスイカが役に立たないのだから、その悲劇っぷりときたら並大抵でない。


だから、スイカ割りのスイカを買うときはケチらないほうがいい。

できる限り、それなりの値段のやつを買うのがいい。

だが今度は、そういうスイカなら最初からゲームに使わずに、ちゃんと切り分けて食べたい欲求が頭をもたげる。

結局、話は振り出しに戻る。

「ちゃんと割れたスイカが食べたいなら最初からそのように切れば済む」つまり、スイカ割りなんてしなくてもいい、という話に――。


「その場のテンションが最高の調味料だ」という意見もあるだろう。「みんなで食べるのがいいんだ」という意見も。

それは大いに尊重したいが、上述の通り、スイカ割りがそのテンションを下げる可能性もある。

また、「みんなで食べる」ために、スイカ割りはべつに必須ではない。

だから私は声高に主張したいのだ。

スイカ割りなんて、やるものじゃないと――。




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