恋人の弟にラップバトルで惨敗した
恋人の家に行った。
実家暮らしである彼女の家に行くことはこれまでも幾度かあったが、その日の私の装いや心持ちは、いつもと違っていた。
何しろ、事業部長と一緒に客先に行く時みたいなちゃんとしたスーツを着てネクタイを締めていたし、足は怯えで震えそうだった。
何しろ、その日は結婚の挨拶のために来ていたからだった。
「娘さんを僕にください」
あのお決まりのやつを言う日だった。
インターフォンを押すと、彼女の母親がドアを開けて招いてくれた。
事情を知っている彼女は、私の姿と緊張しきった顔を見て破顔した。
「心配することないから」
表情はそう物語っていたが、そういうわけにもいかなかった。
私はまさに、様々なドラマや映画で描かれてきた「一世一代の大勝負」の場面を前にしていたのだった。
また彼女の、いかにも普段どおりの「家用の格好」も、私の異様さを浮き立たせるみたいで、いっそう心持ちは落ち着かなくなった。
「つまらないものですが」という常套句とともに、私が遠回りをして銀座で買った洋菓子の詰め合わせを渡すと、彼女はそれを受け取り、「奥の部屋にいますから」と言った。
恋人の父親も、恋人自身も同じ部屋で待っているらしかった。
「分かりました」
彼女の父親と対面せんと歩き始めると、洗面所のドアが開いて、中から彼女の弟が出てきた。
彼とはこれまでに何度も――それこそ私がこの家に来たときなど――に会っていたし、二人きりで夕飯を食べに行き、私より年下である彼の相談に乗った日もあった。
だから客観的に見て、私たちは友人でこそないが、仲の良い親類になれるだろうと思っていた。
しかし、彼の目つきも、その日はどこか違っていた。
緊張しているというのではない。どこか敵意が感じられるのだ。
それに服装も、いつもはもっとキレイめで、テーパードのきいた綿のパンツにニットみたいなものを好むくせに、なんだかダボついたジーンズに、過剰なほどのワッペンがついたスウェットだった。
「なあ」と彼は言った。
「姉貴と結婚したいんだったらよ、お前本気見せてみろよ」
「本気?」と私は訊いた。
私は生半可な気持ちで来ているわけでは当然なかった。
だからこそ、このスーツを選んだのだし、だからこそ、こんなにも緊張しているのだった。むしろ、ふざけているのはお前ではないか。そう抗議しようとした瞬間、彼は「ラップバトルでな!」と言った。
こうして、私は恋人の弟とフリースタイルラップをすることになった。
なんとも荒唐無稽な話である。
この話にはリアリティが欠けている。
だがそれも、これは夢の話なので当然なのだった。
長々と書いてきて今さらで申し訳ないが白状しよう。
これは、いわゆる「夢オチ」である。
この夢から醒めたとき、ハッとなりはしなかった。
前述の通り荒唐無稽すぎて、「なんだ夢か」という感想を持つに至る要素が微塵もなかったからだ。
だが夢の中で感じた悔しさだけは、リアリティを伴って記憶していた。
私は、夢の中で行われたそのラップバトルで負けたのだった。
それも、目も当てられないほどの惨敗であった。
夢の中では、いつもめちゃくちゃなことが起こる。
厳格な論理性を保って話しているように見える誰かの話の歯車が、世間の常識や論理と微妙に噛み合ってない、まるで狂気的なものになっていることも珍しくない。
「カエルたちの笛や太鼓に合わせて回収中の不燃ゴミが吹き出してくる様は圧巻で、まるでコンピューター・グラフィックスなんだ、それが! 総天然色の青春グラフィティや一億総プチブルを私が許さないことくらいオセアニアじゃあ常識なんだよ!」
(今敏(監督・脚本)、2006、『パプリカ』、(脚本: 水上清資)、ソニー・ピクチャーズ・クラシックス)
だから、夢の中でのラップバトルなんてうまくいくはずがないのだ。
惨敗と言っても、無数のオーディエンス――恋人の家にそんなものがいればだが――から理不尽に総スカンを食らうとかが関の山である。
しかし、困ったことに彼女の弟は、めちゃくちゃ韻の固い――詳細を憶えていないのが悔しいのだが――ラップをしてきたのった。
そのさまは、さながらCreepy Nutsの楽曲のR-指定だった。
ラップ歌唱において押韻は技法のひとつであり、必ずしも韻を踏む必要も、それを固くする必要もない。
しかし、相手がめちゃくちゃ固い韻踏んできたせいで、私は「どうにか韻を踏まないと」と躍起になってしまった。
この言葉で踏める韻は――。
これを言ったら、次はどの言葉が使える――。
そして、何も言葉が出てこなくなった。
ラップできなければ、フリースタイルラップバトルで勝てるわけがない。
かくして私は、彼女の弟に惨敗したのだった。
「本気」を態度や結果で示せなかった私は、結婚の報告どころではなく、泣く泣く帰ることになった。
奥の部屋には、逃げ帰った私に憤る彼女の父親と、私に失望し涙する恋人の姿があった。
逃げ帰った私にそれが見えるはずがないのだが、夢の中だから、私にはそれが見えた。
しかし、涙に濡れ手で覆われた彼女の顔は最後まで見えなかった。
果たして、私の結婚相手――だったはずの女性――は誰だったのか。
まあ、所詮は夢の中の話。詮索しても詮無いことだ。
その夢を見たのは数日前だ。
どうにも最近よく夢を見るのだが、中でもそれは特によく憶えている。
やはり、「惨敗した」という事実が効いているのだろう。
どうして夢の中でまで、大負けしないといけなかったのか。
夢の中でぐらい、アメコミのスーパーヒーローみたく、弟の固い韻も蹴散らして、彼女を迎えに行けてもよかったんじゃないだろうか――。
気づいたら裸になっている夢。
高いところから落ちる夢。
殺される夢。
思えば私は、夢の中でいつも「負けている」――つまり、良い結果に辿り着けていないような気がする。
世の人の夢はどうなのだろうか?
他人の不幸を願うわけではないが、夢というものはそもそもそういうもの――そんな結末であってほしいと切に願う。
でなければ、私の惨敗と、顔も知らぬ恋人の涙が浮かばれない。
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