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まちは死ぬこともありうるから

昨日、なんでも拾いをした。

なんでも拾いとはなにかというと、ごみ拾いである。

周辺は釣りスポットということもあり、釣り関係のごみから、なんでこんなものまで?と思うものから、とにかく大漁、いや、大量だった。

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「なぜそんなにモチベーションを持って取り組めるんですか?」

なんでも拾いのきっかけとなった、シティープロモーションイベントのメンバーに聞かれた。当時、縁もゆかりもない土地である鹿児島市に引っ越してきて3ヵ月。いきなり知らない土地で謎に張り切っているわたしをみて不思議だったんだと思う。

一言で表せなくて、うーん……と悩んだ結果、「半径5メートルの人しか作用出来ないと思っているから」と、わかるようでよくわからない回答をしてしまった。

今なら、「まちは死ぬこともありうるから」と答えられる。

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まちは、死ぬこともありうる。

そんな考えを持つ原体験となったのは、福島第一原発事故後、チェルノブイリ原発を訪れたときだった。

ツアーへは、仕事で行かせてもらった。

わたしが勤めていた老人ホームには、福島第一原発事故で、福島から被災して避難してきている方が数名いらっしゃった。

任務は、「ソーシャルアクションに役立てること」

ツアー前、避難されてきた方々のお話を聴いたり、ニュースで避難所の様子をみたりするたび、胸が痛んだ。と同時に、原発事故について、大変なことが起きてしまった、それは分かるけれども、正直なところ「自分事」としてとらえきれていない自分がいた。どこか違う次元で、大きな力によって動いていて、一個人が考えてもどうしようも出来ないことなのではないか、そんな思いもあった。

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チェルノブイリの荒廃したまちの空気を感じて、「まちも死ぬんだ」と思った。風景や建物の写真をパシャパシャとるわたしは観光客そのもので、このショッキングな風景を写真で記録に残したい、という責任感めいたものを感じていた反面、その観光客たる「興奮」があったことも事実で、少し罪悪感を感じもした。ダークツーリズムという概念を知ったのもそのときであった。

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なくなってしまった村の名前が書かれた看板が並んでいる

チェルノブイリから帰ってきて、「持続可能性のある社会」とはなにかということについて考えた。一人で言語化することはできず、上司が夜な夜なアドバイスをくれた。

そこでとても参考になったのが、福祉と環境と経済、この統合について述べた広井良典教授のことばだった。

福祉の問題と環境の問題とは、(中略)「自然」ー「共同体」ー「個人」という全体構造が、近代化ないし市場経済の離陸・拡大の中で変容していく帰結として生成した問題状況のそれぞれ「部分」を占めるものであり、本来その一方のみを切り離して論じるべきものではなく、トータルな理解と対応が求められている二つの領域であることが理解される。広井良典「福祉―環境―経済」の統合―「持続可能な福祉社会」への視座より引用

福祉と環境と経済は相互連関している。

わたしは福祉を専門としているが、福祉が充実すれば持続可能な社会になるかというと、そうではない。チェルノブイリも、福島も、原発を選んだ複雑な背景がある。当時、原発は明るい未来のエネルギーであった。まちにお金をうみだした。チェルノブイリにはたくさんの住宅と、立派な遊園地跡が残っていた。福島は出稼ぎに行かなくても仕事ができ、家族で暮らせるようになった。

その、複雑に絡む背景を知り、余計に分からなくなった。

一体なにができるんだろう。

チェルノブイリ原発事故後、強制疎開させられ立ち入り禁止区域となってしまった土地に、再び戻ってきて暮らしている人々がいた。サマショール、と呼ばれており、日本語では自発的帰郷者、などと訳されるらしい。

「私にとっては、この村以外で過ごすことのほうが具合が悪くなる」

そうにこにこ笑いながら話してくれたサマショールの方は、豚小屋の豚たちや、育てている野菜などを見せてくれた。放射能量が高い、ということよりもなによりも、慣れ親しんだ土地で暮らし続けたい、という強い思いがあった。

そんな姿を思い出し、「ここで年をとりたい」と思えるまちづくりをしたい、と考えるようになった。

そういったわけで今まで政治、宗教、子育て、死生観など、ジャンルにとらわれない活動をしてきたが、環境のことも経済のことも、もちろん福祉のことだって、まだまだ知らないことがたくさんある。福祉と環境と経済、それぞれの領域から、考え続けていきたいと思っている。

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わたしは普段、まちにケアされている。

今でいえば、凛とたたずむ桜島も、山並みも、海も、鳥も、魚も、道端のノラ猫も、道ゆく人々も、おいしいごはん屋さんも、温泉もサウナも。

なんでも拾いは、いわばまちのケアである。

ごみを拾う行為は、ダークツーリズムに通じるものがあると思う。

そこにごみを捨てた人、捨てざるをえなかった人の「悲鳴」のようなものを感じる。

それを一つずつ拾い集めて、さて、次はなにをしていこう、と考える。

個人の力は微々たるものである。

でも、一緒に活動する仲間がいれば、なんでもできる気がしてくる。

世界を変えようとは思っていない。

わたしはわたしをケアしてくれるまちに、死んでほしくないのだ。

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