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墓場でも聴きたい曲を伝えておくということ

「俺の葬式では、この曲を流してほしいなぁ~」

休日のおだやかな昼下がり。のほほんと夫に言われた。

えっと、今葬式の話? わたしは動揺した。

2人であれこれ聴きながら、結婚式で使う曲を決めているところだった。

「そんなこと言わないで」という言葉がのどから出かかって、ぐっとこらえた。

「へぇ~。わかった」

平静を装ったつもりだったが、ぶっきらぼうに答えてしまった気がする。

人間、誰しもいつそのときが来るかわからないと、頭ではわかっていても、やっぱりそういう話をするのはなんだか寂しい。

でも、あらかじめそれを考えておくことが、家族になるってことかぁ、と自分を納得させる。

葬式で流してほしいと言われた曲は、GAGLEの「屍を越えて」

あなたが残した歴史 生きている間には気づかないかも でも こうして築いてるんだ 暮らしは活気づいていくんだ

なんだか彼らしい、残される人を思いやるチョイスじゃないか……と少し泣けた。

しかし、こちらの涙と複雑な心境には気づかないのか、もう違う曲を流して、なにも言わなかったような顔をしている。

まぁ、彼が先に死ぬかなんてわからないし。私だったら、なんだろう。

あれからずっと考えている。

そういえば、墓場まで持っていきたいアルバム3選!みたいな特集をよく音楽雑誌で目にしたけれど、最近はサブスクが当たり前になって、そういう修飾語を聞かなくなった気がする。

今だったら、墓場でも聴きたい曲、とでもいうのだろうか。


老人ホームで働いていたとき、看取り期の方がいると、大体、枕元でCDを流していた。どうしても居室で1人で過ごす時間が多くなるので、無音では寂しいのでは、という考えからである。

曲は、もともと好きだった演歌や、歌謡曲や、ジャズや、その人に合わせて様々。

看取り期の面談のときに、あらためて趣味や嗜好を聞いて、「カラオケが好きだったんですか?」とか、「そんな音楽が好きだったんですね!」と驚くこともあって、そのたびに、なんでこれまで知らなかったんだろう、と後悔と反省をすることも多々あった。

一度、音楽療法を学んでいる学生さんがボランティアに来たとき、看取り期の方の居室で、キーボードを弾いてもらったことがある。

その方が好きだった曲を弾いてもらうと、それまでベッドで目を閉じていたのに、うっすらと目を開けて、手を動かして踊り始めた。

正直なところ、そんな力が残っていたなんて!ととても驚いた。

ご本人は、いつにも増してにこにこしていた。

歌も口ずさみだして、もうちょっとしたお祭りだった。

撮った動画を見せたら、家族は泣いて喜んでいた。

すきなことって、それはもう、とてつもないパワーがある。


終わりが近づいたとき、彼は、私は、なにを望むだろうか。

もしかしたら夫はもう覚えていない一言かもしれないけれど、私はずっと覚えているだろうし、節目には確認するかもしれない。

「葬式で流したい曲は?」と。

そして「今、墓場でも聴きたい曲ってなに?」と。

そういった日常の会話の積み重ねが、「人生会議」と呼ばれる、最期の迎え方の意思を確認しあう行為なんだと思っている。

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