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読めない司書と名無しの少年(3)『不安』

前回


 幾つもの階層が縦へ横へ連なって築かれた巨大な構造物。無秩序に行われた増築に次ぐ増築。改築と補修。もはや全体像を把握している者はいない。ここで働き、暮す司書でさえも。

 今や大図書館の歴史も由来も深い闇の中に溶けて沈みこんで、巨大であるという事実を黒いカーテンの向こうから、おぼろげにその輪郭を見ているにすぎず。今も編纂と管理、探索と探求に司書達が日々、西に東に階段を上り下りし、駆けずり回っている。いつかここの全てを書に納めるために。しかしそれとは無縁の場所もある。最下層がそうだ。

 エリエスは言った。アルーカ大図書館の最下層は特別なのだと。
 書物は無く、人もいない。深い闇だけが広がり、過去より連綿と続く確固たる時の流れは鈍化し、夜ばかりが続いている。

 エリエスは少年に良くしてくれた。
 寒いと言えば少年に自身の外套を纏わせ、お腹を空かせていれば食べ物を分け与えた。聞くとエリエスは年下の司書の育成を任されることがよくあるのだという。
「エリエスと会えてなかったら、僕どうなっていたかわからないよ。あのままずっと彷徨っていたかも」

 少年は受け取った水筒に口をつけ、乾いた体に潤いが滲みこんでいく感覚を味わっていた。
「そうね。今ごろは本になっていたかも」
「僕、本になってたかもしれないの!?」
 少年は咽て、飲みかけの水筒を危うく落としそうになった。
「冗談よ。爺や婆がよく言うの。良い子にしてないと本になっちまうぞってね。いたずらをした子どもを叱るときに言う決まり文句」
「……ふうん」
 少年が驚いていないふうに装う様にエリエスは懐かしさを感じた。

「さっきの兎……本のことだけど、どうして兎の姿をしていたの?あれってやっぱりエリエスの魔法?」
「まさか」
エリエスは笑った。
「魔法の一種だって爺は言ってたわ。詳しいことは知らない。」
「それじゃ、兎を本にしたのがエリエスの魔法?」
「いいえ。あれは布に魔法が書けてあるの。あと私は魔法は使えないし。魔法の使用はここじゃ禁止されているの。例外はあるけど基本はそうね」
 それから、と言ってエリエスは続けた。動物は仮の姿で本来の”本”の姿に戻すのが仕事であること。どうして動物の姿になるかはわからないこと。

「さっきの本は読まないの?」
「読む?」
 エリエスは片方の尾根を上げた。
「だってどんな事が書かれているか気になるじゃない。どうして兎の姿をしているのかって読んでみたら分かるかもしれないじゃない」
「それは駄目。絶対に」
 エリエスの表情を硬くして言った。
「君は……そうね。忘れてしまっているから仕方がないけど。下層にいる司書はね、本を読んではいけないの。どんなことがあっても」
 そのときのエリエスの表情はどこか悲しさが滲んでいるようだった。少年は触れてはいけないものに触れてしまった気がした。

 エリエスは気にしないでと言い。少年はそれ以上は聞かないことにした。少なくとも今は。

 それにしてここはわからないことだらけだ。
 どうして読んではいけないの? どうして本が歩くの? 夜に呑まれるって? 
 疑問は尽きないが時間はある。ここの時間はひどくゆっくりと流れているのだからあとは機会さへあればよい。





「止まって」
 ふいにエリエスが言った。視線は前に向いたまま、先ほどまでの柔らかな物腰とは違う、緊張があった。
 背嚢をおろし、輝石灯の摘みを捻って灯りを絞る。途端に辺りは暗闇の色がぐっと強くり、少年は背後から不安がにじり寄って来るように感じた。

「どうしたの?」
「誰かいる」
「それって――」
 エリエスが少年の口を抑えて言った。
「声を小さく、まだ向こうはこっちに気づいていないと思うけど。……あそこ、見える?」
 彼女が指し示す先、遠くに青い光が三つ見えた。
「輝石灯の光……?」
「そう。だけど私達のとは色が違う。似せようとしたみたいだけど色が濃すぎ。きっと偽物ね」

 エリエスは少年に何かを握らせた。
「いざというときはこれを使いなさい。自分の身を守るの」
 輝石灯のかすかな光を受けて鋭く肉厚の刃がきらめく。鈍い色をした短剣がそこにあった。とたんに少年の背に、心臓に頭に熱い何か走り込んで来て膨張していく。
「どうするの?」
「大丈夫。でも、少し一人でいてね。すぐ戻るから。それも使わずにすむようにするから」
 エリエスは不安な顔をする少年の頭を撫でてやると優しく微笑み、立ち上がり、音も無く暗闇に消えていった。

 盗賊がいるかもしれない。一人で様子を見てくる。でも安心して。そう伝えれば良かったかもしれない。不安にさせるかもとあえて言わなかった。それが正しい? あの子を一人で闇の中に置いて来て大丈夫だろうか? きっと大丈夫。あの子も司書なのだから。

 エリエスは光に向かって闇の中を進んでいた。
 暗闇は自分を広げてくれる。体の境も意識の感覚も広がって同時に細く研ぎ澄まされていく。体と心の境が無くなると悩み置き去りにして考えに没頭できる。不安も、迷いも、自分への抑圧も忘れられる。それに下層司書の成すべきことがハッキリと見える。
  
 間もなくして少年に対する迷いも消えていった。
 目の前の事に集中する。それが、今の私なんだ。


つづく

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