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読めない司書と名無しの少年(6)橙色の光

【前回】


 薄く絞られた灯り。小刻みに震える短剣。少年は暗闇の中でまた一人きりだった。エリエスと別れてからまださほどに時間は立っていなはずであるのに、孤独感に焦燥感、不安はあふれるほどに肥大していた。暗闇が触手のように体中を這いまわり、心に絡みついてくる。閉ざされた視界の中で逆に聴覚は研ぎ澄まされ、時間の感覚を狂わせる。人は暗闇では生きていけない生き物なのだと静寂が言っているかのようだった。目を開けているか、それとも閉じているのか。腕の先、足の先はどこにあるのかもわからない。すべてが溶けてにじんでいくような感覚。頭上に輝く星のような光があろうとも照らしてくれないのなら無いのも同じだった。

 アルーカ大図書館の大広間。書庫。最下層。そこは暗闇の溜まり場。呑まれれば正気を失う場所。司書達は”夜に呑まれる”と言った。闇が形を覆い隠してしまうように、アルーカ大図書館の暗闇は精神すらも覆い尽くして自分をみえなくしてしまう。 

 少年のまだ労働によって鍛えられていない柔らかな手が短剣の柄を食らいつくように固く握っていた。固くこわばりった手は痛みを伴う程に強く力がはいっている。握っていなければ自分がわからなくなってしまうと少年の無意識がそうさせた。

 エリエスは偽物の光の方へと行ってしまった。ここにいるようにと言い残して。それから少しして静けさの中から音が響いてきた。何かが激しく叩かれたような音に怒号。

 怖い。今すぐにでも灯りをつけたい。でもそうしちゃいけない。少年には言いつけを素直に守る事しか考えられなかった。少年は真面目すぎた。少年は手で耳を塞ごうとしたが片方の手は短剣の柄から指が離れなかった。あいているもう片方の手で固くなった指を一本ずつ動かし、やっとの思いで指を剥がすと短剣が床に落ち、刃が床を跳る音が響いた。

 少年は両耳を塞ぎ、それから床にうずくまった。早く、早く戻ってきてほしい。暗い所に一人は嫌だと繰り返しながら。
 背後から、頭上から、足元から、腹の中から、首筋を伝い、背中を這いまわり、何かが足をよじ登って来る。怖い。怖くて怖くてたまらない。
 形の無い、言いようのない何かが。不安、恐れ、焦りがそこら中から滲みだして、押し寄せ、取り囲む。
 
 気配がする。それも目の前か、真後ろ。もしかしたら真横に。それらが語りかけ、囁きかける。耳を覆っていても囁きは僅かな隙間を目ざとく見つけては忍び込むんでくる。時にうめきにも獣のうなりにも聞こえる声が四方から少年へと向かい。反響と反復を繰り返しながら頭へと入って来る。意味は分からない。聞き取るにはあまりにも不明瞭だったが、確かな意思があるようだった。

 さっきまで何を握っていたか。手が痛いのはなぜか。痛いのは自分の手か。意識が引っ張られ、自他の境界が消え、溶けていく。少年は叫けんだ。叫ばずにはいられなかったから。喉を震わせて自分はここにいると、ここにいるのは自分だと自分にわからせたかった。それも次第に分からなくなった。

 体に何かが触れ、次に声が聞こえた。自分を呼んでいる。瞬間、どこか遠くの光景が忽然と少年の目の前に浮かび上がる。眩しくて暖かく、頭上には丸くて大きな物体が空にあり眩い光を放っている。光は全身を照らし、足元では柔らかで緑色の繊維状の物体が一面を覆っていた。背後から風が駆け抜けて通る。湿り気を含んだ涼しい風だった。繊維状の物体は風を追いかけるように波を打って揺れ、心地良い音が後に続いて通り過ぎていく。遠くには四つ足の獣の群れが駆け、その後ろをすらりと長い脚をした獣、それに跨る人の姿。鼻腔をくすぐる香りは花であろうか。僕は知っている、僕は。




 暖かく、明るかった。心地よい感触が全身を包つつで受け止めてくれている。柔らかで、どこまでも沈んでも受け入れてくれそうだった。少年の意識は霧の中のようにはっきりとしない安らかな微睡の中にあり、ここは安心できる場所だと体が本能的に感じているようだった。

 声が聞こえる。聞こえるといっても、少年に言葉の意味までは汲み取れなかった。声の主の一つはエリエスで、もう一つは男の声だった。
 エリエスの声には戸惑が感じられた。事実、エリエスは戸惑っていた。それに後悔と自責の念も。
 三人の侵入者を拘束した直後に聞こえた少年の叫び声。エリエスは少年の元へと走った。夜に呑まれてかけている少年を放り出して職務を優先したことを悔いていた。

 司書は図書館を守り、本を守る。司書の大切な仕事であり、一番の掟だ。だからといって全てに優先されるだろうか。職務追行の為なら今にも夜に呑まれる可能性のある人を放っていいということにはならるだろうか。

 本を守ることを第一とし、きっと大丈夫と自分にいいきかせ。そう思う事で不安を意識の隅に追いやった。侵入者をこらしめ、それから少年の元へと戻り明るい場所へ連れて行けばいい。私なら両方こなせる。慢心も油断も少しはあっただろう。「なんてバカなことを」彼女は自分を責めた。自分が暗闇に慣れているからといって他人が同じな訳が無いのに。

 エリエスは震える少年を担ぎ、最寄りの休憩所へと急いだ。司書の憩いの場として重宝されている休憩所であれば光に満ちている。夜に呑まれかけている人を呼びものすなら暖かい光を当ててやることが一番だからだ。
 こうした場所はアルーカ大図書館に多くあり、最下層では殆どの場合、床下に設けられている。幾つかの寝台や簡易的な調理場、保存食をはじめとした必要な物が置かれていた。

 エリエスは少年を寝台に寝かせると、天井に吊るされた輝石灯に手を延ばした。つまみを捻ると薄い橙色の光が灯り部屋を照らした。輝石灯の光は蝋燭のようにときおり揺らいで、腰に吊った輝石灯の青白く冷たい色合いの光とは違った柔らかな色合いと仄かな熱があった。
 古い擦り傷だらけの床や角の丸くなった樫の机、固い木の椅子と冷えた空気が天井から注がれる橙色の光によって柔らかくほぐされていく。

 温かな光と柔らかな毛布のしたで少年の表情は次第に落ち着いたものへと変わっていた。浅く感覚の短かった呼吸もゆっくりとして安らかさがある。もう少し遅ければどうなっていたかわからない。私はこの子を見捨てるところだったのかもしれない。エリエスの顔には安堵と不安とが入り混じり、吐き出す息からは自分への不甲斐なさが漏れ出ていた。自然と涙が滲んだ。
 
 天井から音がした。ノックをする音だ。エリエスは滲んだ涙を指で拭ってから落とし戸を開けた。


【次回】







 

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