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読めない司書と名無しの少年(7)隠しごと

【前回】



 頭上の落とし戸を叩く音が室内に響きわたり、エリエスの中で侵入者と言葉が浮かび上あがったが、すがさまそれをかき消した。可能性は低い。
 アル―カ大図書館は広い。見渡す限り闇と古びた椅子と書架と机ばかりの世界で床下の部屋を探すことは難しい。不可能ではない。と口だけならなんとでも言えるものだが簡単に地下室への入口を外部の人間が簡単に見つけられようものではないのもまた事実。

 たとえ床下に部屋があると知っていても書架の並びと、星図のようにして並ぶ上階のランタンの光の配置を見て自身の居場所をある程度理解している司書にしかわかりえない。
 そうエリエスは自分に言い聞かせる。

 暗闇での戦いの疲労はまだ残っている。夢中で気が付かなったが背中に痛みもある。あの男達の顔が浮かぶ。自分に向けられた強張った表情。最後に戦った男の鋭く突きさすような目。輝石灯の灯りを受けて闇に青白く縁取られた刃の輪郭。

 エリエスは胸に手をあてて深呼吸し、それら全てを吐き出すようにして長く息を吐きだした。「あれこれ考えても仕方がない。今までだってやってきたんだから」
あえて声に出した。

 梯子へと手をかけようとしたとき、ガチャリと音がして落とし戸が開き、休憩室から暗闇へと漏れ出た光が一人の青年の姿を浮かび上がらせる。
「リーユ」
 エリエスは自分の体から自然と力が抜けいった。
「やぁ、エリエス。こんばんは」
 リーユという名の青年。彼もまたエリエスと同じ下層司書だ。黒髪に浅黒い肌、瞳はやや茶色ががった黒。腰にはエリエスと同じ蔦の葉の装飾の施された輝石灯のランプが青白く輝き、胸の閉じられた本と羽ペンの紋章と縫い付けられた細かな繊維が光を反射し小さくきらめいていた。

「こんばんは。久しぶりね」
「誰かいるといいなとは考えていたけどまさかエリエスがいるとはね。どれくらいぶりかな?」
「二か月か……それか三か月、ってとこかしらね」
「そんなにか! お互いに柱を出たり入ったりで行き違いばっかりだもんなぁ」
 エリエスの両肩をがっしと掴んで爽やかな笑みを向ける。あまり笑う事の少ないエリエスとは対照的で、がっしりとした体形だがまだ顔にはどこかあどけなさの残っていた。

「……少しちじんだ?」
「失礼な。あなたの方が大きくなったのじゃなくて? また背が伸びたみたい。ついこの前まで同じくらいだったのに。そのままのびたらいつか一番上の天井にぶつかるかもね」
「その時は明り取りの穴でもあけて太陽でもみてみようかな……それで、その子は?」
 リーユは荷物を置きながら言った。少年はまだ眠ったままだ。
「新しい子、かもね」
「かもって、なんだかしっくりしない答えをするね」

 リーユは肩を竦めながら、奥の部屋の方へと歩いて行った。奥には簡単な調理場が設けられ、制限はあるが熱を扱うことも許されていた。冷たく深い暗闇を歩いてきた体は暖かい光を浴びることと、暖かい飲み物を口にするのが一番良いとされている。リーユの好奇心は寝台で横になっている少年へ向けられているが何事にも優先順位がある。

「エリエスはもう飲んだかな」
「ううん、まだ。お願いしてもいい? それからこの子の分も」
 リーユは快諾し、軽く手を振りながら調理場へと消えていった。

 エリエスはその様子を見送ってから寝台の傍の椅子に腰を下ろした。やけに体が重く感じる。疲労がいっきに顔を覗かせてきたようだ。調理場の奥からは微かに柑橘系の匂いが流れて来ている。リーユの淹れる茶の温かな香りだ。

 エリエスはおもむろに少年の手に自分の手を重ねてみた。エリエスの手は小さくもないがけして大きくもない。すっぽりと収まる小さな手の温もりは少し低いが、担いで来たころと比べればだいぶましといえるだろう。呼吸も落ち着いている。

 こんな少年が一人で出歩くなどあるのだろうか? しかし少年の持っていた輝石灯は紛れもなく下層司書の物。一人前の下層司書になった証に贈られるものだ。それでも

 少年と出会ったときエリエスはついに自分が幻覚を見るほどに夜に呑まれて始めていると思った。実際はそうでなく、彼は実在し自分はまだ正気なのであるのだろうと。ここに運ぶまでの間、背中の重みと冷えた体から感じ取っていた。

 自然と笑いが込み出てくるのこら小さく肩を震わせた。実に滑稽なありさまであったと。幻覚かもしれないと思いながら少年を人として心配もしながら。暗闇に放置し、ぞんざいに扱った。かといえば必死になって戦い。戻ってみればこんなことに。自分の行動に嫌気がさす。つじつまの合わない行き当たりばったりで感情的な。

 自分は夜に呑まれたとしても構わない。そうでありたいと思っているのだから。でも他人がそうなってしまうのは嫌だ。自分勝手だ。でも湧いてくるものにどうしようというのだろう。エリエスは短く息を吐いた。それらをひとまずはどこかに置いておくために。今日はいろいろあった。疲れているのだから。そう思ってすこし目をつぶった。

 ふいに何かが置かれる軽い音がして、エリエスは視線をそちらへ向けると、そばの小さなテーブルにコップが置かれていた。柑橘系の爽やかな香りが白い湯気と共に立ち上り、それまで何の華やかなさの無かった空間に彩を添えるように。

 顔を上げるといつのまにかリーユが傍に立っていた。
「ありがとう。寝ちゃってたみたい」
「熱いぞ」
リーユは自分のぶんをすすって顔をしかめた。
 
 リーユはそばに椅子を引きずりよせ寄せて座り、また一口、口の中に含んだ。その間、彼はじっとエリエスの顔を見ながら何か言いたげに指をクルクルと回して見せる。
「何よ?」
 エリエスは尾根を寄せる。
「いや、珍しく疲れが出てるなって」
「それはそうでしょう。重い本を持って歩き回っているわけだし」
「それとは別に。って感じだけどまぁいいや。それで、その子とはどんな関係なのかな」
「関係というほどの付き合いもない。出会ってまだ間もないもの。知ってる?」
リーユは肩をすくめて見せる。
「さっき言ったっとおり知らないな。その輝石灯はその子のか?」
 リーユは寝台のそばに置かれた輝石灯を指さした。エリエスが少年を寝台に寝かせた後に置いたものだ。
「わからない。持ち物は服とこれだけだったから。違う人の物かもしれないけど模様を調べてみないとなんともね。もしかするとこの子の物じゃないかも」
「かもな。もしこのくらいの年齢で輝石灯を持ってたら有名人だ。顔を知らないにしても模様くらいは見てるはずだし。その様子だと名前も知らなそうだね」
「そう。本人も忘れてしまっているようで」
「なるほどねぇ。夜に呑まれかけているわけか。……まだ大丈夫だよな?」
「今は、大丈夫」

 エリエスは俯き、体の中に嫌なものがじわりと滲むような感覚があった。
「私のせい」
 エリエスは居心地が悪そうに座りなおし、眉間に皺をよせるリーユに向かって少年と出会った時から今に至るまでのことを伝えた。ただし、エリエス自身が灯りを消して歩いていたことは伏せた。これは彼女自身の隠しておきたいことだったから。


【つづく】

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