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13 抑うつ症状の回復の順番 ー笠原説の検証ー

#1 抑うつ症状の回復 -笠原の理論-
うつ病が回復にともなって抑うつ症状は消失していく。しかしすべての抑うつ症状が同時に消失するわけではない。早く消失する抑うつ症状もあれば、なかなか消失しない抑うつ症状もある。

精神科医の笠原嘉は抑うつ症状が改善していく順序について次のように説明している(笠原嘉 みすず書房 2011)。笠原は三つの大きなカテゴリーに分けて抑うつ症状の消えていく順序について説明を行っている。うつ病の回復過程ではまずは「不安・イライラ」が改善し、次に「抑うつ気分」、最後に「おっくう感(内的抑制)」が消失するという。

さらに詳しく述べると、図1が示すように、「1.イライラ」「2.不安」「3.憂うつ」「4.手がつかない」「5.根気がない」「6.興味がない」「7.喜びがない」「8.生きがいがない」という順番で抑うつ症状は回復していくという。

図1 抑うつ症状の消えていく順序 笠原嘉 みすず書房 2011より

しかしその一方で笠原は「この抑うつ症状が回復する理論に関しては直観的であり、統計的な裏づけはない」と述べている。

笠原は「症状が回復する理論に関しては直観的と述べている。では直感の背景となったのは何だろう。笠原はその点については言及していない。もしかしたら笠原の理論の背景として一般的な外傷や病気から回復イメージがあったのかもしれない。例えば骨折から回復において、最初に痛みがやわらぐ。次に骨折が癒合し、最終的に運動機能が回復する。つまり最初に急性期症状(痛み)が消失し、次に本態が回復し、最終的には機能が復活する。同じようにうつ病でも最初に不安が消失し、次にうつ病の本態である抑うつ気分が改善し、最終的に意欲が回復する、といった具合いである。

#2 笠原の説を検証した田近らの論文
では実際に抑うつ症状はどういった順に回復するのだろうか?1980年以前なら精神医学の権威が何らの説を提示すると、それが事実であるかのように教科書に記載されていた。しかし最近は実際のデータを分析して事実かどうか検証するようになっている。いわゆるエビデンス・ベイスド・メディスン(EBM)である。

田近らは笠原の説を検証するため、うつ病患者の大規模コホートを用いて、抑うつ症状(PHQ-9)の経過を調査した(Tajika A. et al. Acta Psychiatrica Scandinavica 2019)。なおPHQ-9は「1.抑うつ気分」「2.興味関心の喪失」「3.睡眠障害」「4.疲労感、気力の低下」「5.食欲の異常」「6.無価値観や罪責感」「7.易疲労感や気力の低下」「8.落ち着きのなさや行動抑制」「9.希死念慮や自傷念慮」の9項目からなる。被験者は過去2週間にこういった症状をどの程度存在したかについて、「全くない」「数日程度」「半分以上」「ほとんど毎日」の4つの選択肢の中から選択する。

その論文によれば、うつ病の回復とともに、「9.希死念慮や自傷念慮」や「8.落ち着きのなさや行動抑制」は最も早く消失し、その一方で「3.睡眠障害」や「4.疲労感、気力の低下」は最後まで回復が遅かった。そして「1.抑うつ気分」「2.興味関心の喪失」といったうつ病の主症状は中間の早さで回復した。

田近らの結果では、笠原の説と実際のデータで不一致な点を認めた。例えば「2.興味関心の喪失」が「1.抑うつ気分」と同じ順序で回復したは笠原の理論と異なっている。その一方で「8.落ち着きのなさや行動抑制」を「不安・イライラ」と見なすと、こういった不安の消失が最も早いという点では笠原の説はデータと一致していた。

#3 抑うつ症状の回復する順序は何で決まるのか?
笠原のファンには悪いが(笠原嘉は高名な精神科医であり、その著書は今でも読み継がれている)、田近らが実際のデータを報告した以上、事実を重視するしかないと思う。

ではうつ病の改善に伴うそれぞれの抑うつ症状の回復のしやすさは何によって決まるのだろうか?この点については一般人口における抑うつ症状の分布(症状発現の閾値)から説明可能と思われる。

図2は米国政府によって行われたNHANESという大規模調査の結果であるがが、一般人口における抑うつ症状(PHQ-9)の分布を示している。これまで説明してきたように一般人口におけるPHQ-9の抑うつ症状はDS分布に従っている。注目すべきは、PHQ-9の抑うつ症状の出現しやすさは、症状によってかなり異なることである。


図2 NHANESのおけるPHQ-9の抑うつ症状の分布 Tomitaka et al. BMC Psychiatry 2018

「9.希死念慮や自傷念慮」や「8.落ち着きのなさや行動抑制」は一般人口における発現率が低く、その一方で「3.睡眠障害」や「4.疲労感、気力の低下」は頻度が高い。

田近らの論文によれば、「9.希死念慮や自傷念慮」や「8.落ち着きのなさや行動抑制」といった症状はうつ病の回復とともにもっとも早く消失している。図2が示すように、こういった抑うつ症状はもともと出現しにくい症状である。つまり閾値が高い(発現しにくい)症状は。抑うつの改善とともに早く消失すると考えられる。

一方図2に示すように、「3.睡眠障害」や「4.疲労感、気力の低下」は最も発現しやすい抑うつ症状である。つまり閾値が低い(発現しやすい)症状は最後まで消失しにくく、残りやすい。要は、抑うつ症状が消失する順序は抑うつ症状の出現しやすさ(閾値の高さ)によって決まるのではないだろうか。

抑うつ症状の中で、「9.希死念慮や自傷念慮」がもっと早く改善するという点に関して、困惑する人もいるかもしれない。自殺念慮のような重い抑うつ症状が消失するには消失に時間がかかるようなイメージがある。しかし事実は事実として認めるしかない。実際うつ病から回復したのに、自殺念慮だけを最後まで訴え続ける患者は滅多にいない。むしろうつ病から回復しても、閾値が低い「不眠」や「気力のなさ」を最後まで訴える患者の方が圧倒的に多い。

#4 ケタミンと自殺念慮の消失
ところで、近年米国ではケタミンという麻酔薬がうつ病の治療薬として注目を浴びている。 ケタミンの特徴としてうつ病から早期に回復すること、特に「自殺念慮」の症状が短期間で消失することが注目されている(橋本謙二 精神神経学雑誌 2020)。

しかし田近らが報告したように、標準的なうつ病治療を行っても、「自殺念慮」の症状は抑うつ症状の中でもっとも早く消失する。そういった点からすれば、ケタミンの治療により「自殺念慮」の症状が抑うつ症状が早く消失するのは当然なのかもしれない。もちろんケタミンの早期回復効果には注目すべきと思うが。

なお世の中には、抑うつ症状はあまり目立たないのに、自殺念慮だけを訴える人が稀に存在する。私の長い精神科医の経験の中でもこういった患者は一人しかいなかった。その患者は自殺したある作家を異常に崇拝しており、診察のたびに自分も若いうちに自殺したいと述べていた(自殺念慮というより、自殺願望に近かった)。こういったケースの自殺念慮の経過はうつ病の発症にともなう自殺念慮の経過とまったく異なる。一方、うつ病の発症とともに自殺念慮を認めた患者のほとんどは、うつ病が改善すれば自殺念慮も消失する。

文献
1)笠原嘉 外来精神医学という方法 みすず書房 2011
2)Tajika A. et al. Trajectory of criterion symptoms of major depression under newly started antidepressant treatment: sleep disturbances and anergia linger on while suicidal ideas and psychomotor symptoms disappear early. Acta Psychiatrica Scandinavica 2019 140: 532-540.
3) Tomitaka S. et al. Distributional patterns of item responses and total scores on the PHQ-9 in the general population: data from the National Health and Nutrition Examination Survey. BMC Psychiatry 2018. 18: 108.
4)橋本謙二 難治性うつ病の画期的治療薬として期待されるケタミン 精神神経学雑誌 2020 122: 473-480.

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