【創作小説】だって、さよならなんて言えない
義母さんの運転する車が家を出て、まっすぐな道を進んでいく。私はいつもこのまっすぐさがもどかしくて、じっとバックミラーを睨んでしまう。様々な外観をした住宅が映っては消えていく。自分の家はすぐに見えなくなっても、立ち並ぶ家々がどれもどこか同じように見えるから、まるで自宅に付き纏われているような心地になる。それを嫌だと思うのはきっと、自分の家自体を嫌っているわけではないからだった。
ようやく最初の曲がり角に辿り着き、右へ曲がって、国道に出る。バックミラーに住宅が映らなくなると、助手席の私はポニーテールを解いて、ヘアゴムを手首にかけた。
「律儀ね、いつも」
運転席からは小さな笑い声。私は声の方を見て、さっき寝ぼけ眼の父さんに行ってきますのキスをした時にはしていなかった、珊瑚色の口紅に気付く。
「花凜さんだって」
私が言うと、笑い声が悪戯っぽく色付く。唇が、誘っているみたいに微かに形を変える。光の当たり方が僅かに変わり、珊瑚色が果実めいた色に変わる。
車は早朝の街を走り抜けていく。月に一度、私はこうして花凜さんと二人で出掛けるけど、今日はいつもより早い出発だった。車窓越しに見上げれば真夏の青空。エアコンの効いた車の中から眺める分には、眩しく爽やかで清々しい。
途中でコンビニに寄って、私はブラックコーヒーを、花凜さんはミルクティーを買う。日中いるような人よりは愛想がよくないレジ打ちの青年が、確認もせずボトルとペットボトルを袋に入れてしまう。車に戻り、それぞれの飲み物を手にした後、花凜さんは袋を綺麗に畳んでカバンに仕舞った。
走り出した車はやがて、私にとって見慣れない道に乗る。花凜さんにとっては勝手知ったる道らしく、カーナビは現在地を示す以上のことをしていない。
道沿いに家や店ではなく何かの工場や倉庫が目立つようになり、道は広くなっていく。何となく落ち着かなくて私は窓の外を見つめる。そんな私を花凜さんが時折横目で見ては、小さく笑いを漏らす。
広い道の突き当たりを車は右に曲がって、助手席から見える横手の景色が防風林で埋まった。しばらく林に沿って車は進む。やがて不意に景色が開けると、その向こうには海が広がっていた。
「海なんて随分久しぶりだなあ」
私は思わず無邪気な声を出してしまう。
道には民家の他には真っ白いマンションや飲食店、釣りやサーフィンの用具店、それからラブホテルなどがまばらに並ぶ。車も歩行者もほとんど見当たらない。平日の朝からこんなところに用のある人などそうそういないのだろう。二人きりの静寂にずっと浸っていてもよかったけれど、私は口を開いた。
「父さんと母さんが新婚旅行で行ったところが、海がすごく綺麗だったんだって。それが、私の名前の由来なんだって」
「へえ。ちょっと変わってるけど、いい名前よね」
珊瑚の珊に海で、タマミ。初見で読み方が分かる人はほぼいない。
「花凜さんの名前は?」
「由来? そういえば知らないなあ」
「そうなの?」
「案外、知ってる方が珍しいんじゃない?」
「そうかな。私、小学校の授業で親に聞いてこいって言われたよ」
「ふうん。わたしはそんなの記憶ないな」
花凜さんがお茶目に首を傾げる。
「まあ、何となく想像はつくけど。可愛らしくそれでいて凜として、みたいなことでしょう、多分」
「可愛らしく、ってのは分かんないよ。何かこう、凜とした花があって、それみたいにってことかも」
「何、可愛くないからフォローしてくれたの?」
「違うよぉ」
なぜ変なフォローじみたことを口走ったのかは自分でも不可解だったけれど、とりあえず花凜さんについては可愛い一面もあると常々思っているので、それは否定しておく。
「けど、私好きだな。花凜、って名前」
「ふふ、ありがとう。わたしも好き」
「どっちを?」
「どっちも」
信号が赤になって、車がすぎるくらい静かに止まる。花凜さんが私の方を見て、私はさっきからずっと花凜さんの方を見ていて、そして私たちはどちらからともなくキスをした。一秒にも満たない、触れるだけの、悪ふざけみたいなキス。
息遣いを感じるほどの至近距離で、微笑を交わす。胸の奥には熱、シートベルトをもどかしく感じるほどの。けれどその拘束を私はありがたく思ってもいた。
●
私が花凜さんと出逢ったのは、母さんが死んでから二年くらい経った頃で、花凜さんが前のパートナーと別れて一年半くらい経った時だったらしい。
父さんが婚活に手を出し始めたのは、別に青春をもう一度とかそういうのではなく、ただ私と二人での生活に限界を感じ出したからだった。私も父さんも、それまで家のことは母さんに任せっきりだった。その母さんが事故で突然死んでしまって、私たちは一通り呆然としたり泣き明かしたりした後、現実に追われ始めた。
学校や会社と並行して家事をこなしていくことは、可能な人には何でもないことなのだろう。けれど父さんとその血を受け継ぐ私にはどうにも難しかった。それで父さんは、家のことをやってくれるひとを見つけに行ったのだった。つまるところ、結婚というのを単に利用価値のある制度として見なし、同じように考えているひとともし出逢えたら、ということだった。
そんなに上手くいくだろうか、と請われるまま家事を引き受けつつも私は思っていたけれど、半年もしないうちに、父さんは花凜さんを家に連れてきた。
……いや。
上手くいったというわけでは、きっとなかったのだ。
「珊海。言っておいた通り、連れてきた。挨拶してくれ」
紹介したい人がいると言って、父さんが花凜さんを初めて家に連れてきたあの日。
よそ行きの服によそ行きのメイクで緊張した様子だった花凜さんと、いつもの部屋着のままで最低限のメイクだけはしたという程度だった私は、互いを一目見たその瞬間、恋に落ちてしまったから。
全部が、本当に一瞬だった。
想うこと、通じ合うこと、罪を背負ったのだと理解することまで。
あの日、私たちの間に流れた一瞬の、あまりに決定的な沈黙を、私は今もはっきりと覚えている。
その一瞬で、私たちは何よりも優先して、生まれたての恋を、芽生えたての愛を伝え合った。
「初めまして、珊海です」
「花凜です。よろしくね、珊海ちゃん」
何食わぬ顔で言って、握手をした。それが私たちの最初の嘘だった。
何かの勘違いならいいのに、とどこかで思ってもいたけれど、何度会って交流を深めても、気持ちは変わらなかった。だから私たちはあっさりと打ち解けていった。そしてそんな私たちを見ながら、父さんはほっとしているのを隠す様子もなかった。私と花凜さんは、父さんに本当のことを隠し続けた。
「明日の放課後花凜さんと会ってくる」
そう伝えた夏の日、映画館で初めて手を繋いだ。
「明日花凜さんと出掛けるね」
そう伝えた秋の日、花凜さんの家で初めてキスをした。
「花凜さんと泊まりに行くよ」
そう伝えた冬の日、山奥の旅館で初めて肌を重ねた。
大事な父(ひと)に隠して、ふたり気持ちを膨らませていく。それはとても苦しくて、哀しくて、楽しくて、気持ちよかった。
●
車は海を臨みつつ、緩やかに山を登っていく。これまでショッピングモールとか水族館とか自然公園とかに行ったけれど、今日の行き先はそれらとは違っているようで、私は連れ去られているような気分にもなる。
美術館に行く、とだけは聞いている。しかし私にとって美術館というのは何というか、平らな場所にあるイメージなので、山を登っていくこの道のりには多少の戸惑いがある。
そういえば一度だけ、小学校の校外学習か何かで山の中にある美術館に行ったことがあったかもしれない。記憶はあまりに朧で、砂粒のようで、掻き集めたと思ってもさらさらと零れていく。――そんなことを頭の中で何度か繰り返しているうちに、車は駐車場へ入った。
「着いたよ」
「あ、うん」
どうでもいい記憶に気を取られて、花凜さんに生返事をしてしまう。誤魔化し、それか償いのように、車を降りた私は花凜さんの手を取る。駐車場は空いていて、花凜さんが車を停めたのは建物に一番近いスペースだった。
木々に巧妙に隠されて到着する間際まで見えなかった、広く拓かれた場所に聳え立つ美術館はそれ自体がきっと一つの作品だった。五階建てくらいの高さがある白い円筒状の建物。普通の窓やかなりの年季を感じる窓、大小様々なステンドグラス、或いは窓のない場所、それらがパッチワークのように建物を彩っている。
「大人二枚」
建物の入り口の受付で、花凜さんが言う。私は自分が大人だとはまだ思えないけれど、こういう場所では勝手に大人扱いされてしまう。
特定の宗教を信仰してはいないので、宗教施設には観光目的でしか入ったことがないが、そういう神社仏閣や教会といった場所と、美術館や博物館みたいな場所は、とてもよく似た雰囲気に満たされていると私は思う。芸術というもの、知識や歴史というものを、ある意味信仰する者たちのための場所だからかもしれない。
こんな風に人が少なくて静かだと、いっそうその感覚は強くなる。厳粛な空気はどうしても少し息苦しくて苦手だ。花凜さんにはこれくらいの静けさの方が心地よいみたいで、何も気にならない様子で口を開く。
「ここね――前のパートナーが教えてくれた場所なの」
一階は二階以降の各フロアの紹介として古い絵画から現代アートまでが並ぶ他に、企画展のスペースもあった。今は《最新科学技術とアート》という展示らしい。
「前の……って、どっちだっけ」
「男の人」
覚えていてわざと私は尋ね、そうであると察しているから花凜さんは何でもないことのように答える。涙滴型のペンダントトップに指先で触れる。
「あのひとにとっては、何となくお洒落な場所、っていうくらいだったみたいだけれど。でもわたしは、結構気に入っちゃって。それこそ、こうして次のパートナーを連れてくるくらいにはね」
企画展のスペースに花凜さんが足を踏み入れる。私は少し躊躇ってから後に続く。最初に目に入るのは、神話の男神が怪物の首級を掲げる彫刻。全く同じ形をしたそれが三つ並んでいる。一つ目が十四世紀につくられたオリジナル、二つ目はそれを3Dプリンタで複製して同じように色をつけたもの、三つ目は形だけコピーしたものに芸術家が独自の彩色を施したもの、だそうだ。
三つ目はサイケデリックな色が付いているからともかくとして、私には一つ目と二つ目の違いがほとんど分からなかった。解説のパネルを読まなければ、どういう展示なのか察することもできなかったかもしれない。――色の付け方の効果で重量を感じさせているだけで本当はプラスチックなのだ、と知った瞬間、二番目の彫刻は私の中で簡単に価値を失ってしまった。
すごいわね、と隣で花凜さんの声。視線は二番目の彫刻。口も開けずに小さく頷いて、私は三つの彫刻から一歩遠ざかる。
次に私たちを迎えたのは前衛芸術だった。大きなキャンバスにデジタルの直線や曲線が無数に飛び交い、重なり合って、何かを描き出しているようにも、また何を表してもいないようにも見える。人工知能が認識している世界を特殊な方法で画像化したものだそう。
「珊海は分かる? こういうの」
「……少なくとも、その人よりは分かると思う」
顔も知らない前のパートナーに対する対抗心は、半分は本気でもう半分は演技だった。尤も正直なところ、目の前のキャンバスについては何が何だかという感じだった。
「いっそ分からない方がよかったのに、って思ったことは?」
花凜さんが返してきた言葉は全く私の予想の外側で、私は驚きと戸惑いで一秒、答えを探すのに手間取って一秒、返事が遅れた。
「あるよ。何度も」
今度のそれは、ただの本音だった。私と花凜さんは、人ならぬ者が視たというその混沌の画像から離れて、少し早足になって企画展の残りを巡った。
フロアを反時計回りに一周して中央の螺旋階段で次の階へ上がる、という順路を私たちはゆっくりと歩いた。二階は近現代の前衛芸術、三階は九世紀以前の彫刻作品と建築、四階は十五世紀付近の宗教画や彫刻とステンドグラスが展示されていた。階が変わるごとに時代も、フロアの雰囲気もがらりと変わり、無秩序の渦の中へ知らぬ間に呑み込まれていく、そんな感覚があった。
花凜さんがチケットを買う時に離した手は、ずっと繋ぎそびれたままだった。人の目もほぼなく、両手が塞がっているわけでもなく、歩調もずっと同じくらいでいるのに。
並ぶ様々な芸術品について、私たちは特に語り合うようなことはしなかった。同じ空間にいて同じものを見ているという事実こそが一番大切だったから。或いは、見ている世界が少し、けれど決定的に違うことを、言葉にして再認識してしまうことに怯えて。
――四階から次へ行く階段の手前にカフェスペースがあったので、一休みすることにした。というより、ここが本当の目的地だったかのように花凜さんがまっすぐ入っていくので、私は何も言えずついて行った。
お勧めのメニューがチョークで書かれた入り口のボードには、ついさっき見た絵画のキューピッドがコピーされたものが貼り付けてあった。屋内席とバルコニー席があり、屋内席には上品な身なりの老爺が独り、ホットコーヒーを飲んでいた。花凜さんはバルコニー席へ向かう。木の床を踏む、こと、こと、という音が思いがけず新鮮だった。
二人でアイスコーヒーを頼んで、私たちはバルコニーからの景色に視線を移した。開けた芝生の敷地、その後に森、そしてその奥には少しだけだが海も見えた。夏の陽射しの中で草木は煌めき、海は輝いていて、私は思わず感嘆の溜め息をついてしまった。
「こっちの方が分かりやすいなあ」
「ふふ。確かにね」
「自然って、いいよね。……いや、羨ましいっていう意味でね」
「?」
「どんな形でもどんな色でも、ありのままでいれば、きれいだって言ってもらえるんだもん」
「……人は、究極的には自然をどうすることもできないから。だから、せめてそのままを愛でるしかなかったんじゃないかな。これは美しいんだ、って言い聞かせて、無理矢理共存してきたのだと思う」
「花凜さんって、自然とか好きじゃなかったっけ」
「好きだよ。ただ、好きとか綺麗とかそういう価値観って、自分自身で獲得してきたものなのかどうか、分からないじゃない。だから、自然に限らずだけど、何かをそう感じる自分の心が、時々空恐ろしくなるの」
店員がアイスコーヒーを二つと、小さなピッチャーに注がれたミルクとガムシロップをテーブルに置いた。たっぷりの氷が入ったコーヒーのグラスを、待ちかねたように花凜さんは手に取る。たおやかな手が冷たく濡れていく様を私は想像する。
「……話を、しに来たの?」
問いは、きっと私の方から切り出さなくてはならないことだった。花凜さんはグラスを慎重にテーブルへ戻し、目を伏せる。細く長く息を吐く。私は膝の上でぎゅっと両手を握り締める。手の平に爪が食い込む。こんな痛みを研ぎ澄ますために、爪を整えてきたわけじゃないのに。
●
「珊海ちゃん。今日、創さん、会社の飲み会で遅くなるって」
「そうなの?」
「うん。だから――ね」
振り向いた私のヘアゴムに花凜さんが手を伸ばし、純粋さと狡猾さの混ざった微笑と共にそれをゆっくりと抜き取っていったのは、二週間くらい前のこと。私はと言えば居間のソファの上、花凜さんがあまりにも鮮やかに滑らかにルールの隙間をすり抜けてきたので、抵抗もできずただ彼女の名前を呟いただけだった。
さすがに自宅であまり踏み込んだことをする気分にはなれなかったけれど、自宅以外では既に踏み込んだことをしている私たちだから、そのもどかしさや手探りのような感覚がむしろ新鮮で楽しかった。わけもなく名前を呼んで、意味もなく指を絡めて、目的もなく隣に座った。弾けるような楽しさや世界を虹色に彩る嬉しさではなく、寄り添う体の温もりがじんわりと部屋を満たしていった。
けれど――そもそも花凜さんの方からそういう風に誘ってくること自体、私が手を出してしまうことに比べたらかなり珍しいことだった。不意に覗かせるそういう子供っぽい無邪気さが私は好きだったが、自身で制御しきれなかった花凜さんの出来心は、彼女の心にずっと差していた影を、とうとう無視できない濃さにまでしてしまったらしかった。
最初のうち幸せそうにしていた花凜さんは、次第に口数を減らして、何事か考え込むようになった。私と二人の時にそんな態度になるのは初めてのことだったから、私はどうすればいいか迷って、結局何もできないまま、花凜さんが思案するに任せた。
「……どうしたの?」
それでも、二人で作った夕飯がテーブルに並ぶ頃、私は我慢できなくなって声を掛けた。
「何か、悩み事? ……私たちのこと、だよね」
花凜さんは弾かれたように顔を上げ、小さく首を横に振ったが、すぐ観念して、頷き直した。
出来たての料理から立ち上る湯気の向こうに、花凜さんがいた。雑穀ご飯、卵のコンソメスープ、ほうれん草と鶏肉のソテー。私たちはどちらからともなく椅子に座り、今までになかったぎこちない沈黙を共有した。漂う美味しそうな匂いは、一時間ほど前までの私たちに相応しく、今の私たちにとってはまるきり場違いだった。
「ごめんね。急に、ふと思っちゃったことがあって」
幸せな時でも、思い悩む時でも、花凜さんは背筋を伸ばしている。それは逃げない強さであり、逃げられない弱さでもあり、そして逃げさせない残酷さでもあった。
「創さんに、話したいなと思って。わたしたちのこと」
●
「……」
ミルクを手に取り、自分のコーヒーへ流し入れながら、私は花凜さんが口を開くのを待った。澄んだ黒に濁りない白が落ちて、何もしなくても少しづつ混じっていく。綺麗なもの同士を混ぜたのにどうして美しさが失われてしまうのだろうか。混ざっていると知ってしまったことが、私の目を曇らせるのかもしれない。
「理由は、あの日言った通り。嘘をつき続けるのが、辛くて」
いっそ父さんが、嘘をついても良心が痛まないようなろくでもない人間だったら、まだ救いもあった。けれどそうじゃなかった。父さんは父さんで、とてもいい人なのだ。恋愛感情とはいかなくとも、一緒に生活していけると素直に思えるくらいには。そもそもそういう相手を探していたから、花凜さんは父さんと出会ったのだ。
花凜さんにとって父さんは、私の父親で、私に会うための口実だ――なんて言い切って捨てられるような人じゃない。
「珊海も、そうじゃない?」
「……それは」
ガムシロップのピッチャーを手にして、私は何も言い返せないで硬直する。
花凜さんが父さんと結婚したその時、背徳はただの禁忌に変わって、甘さと苦さの関係は逆転した。それでも私たちは、やめることだけはできなかった――きっともう、混じり合ってしまったから。
沈黙が私たちの間に、砂時計のように降り積もっていく。花凜さんは私の言葉を待って口を噤んでいる。それも当然だ、彼女の方にはもはや語るべき言葉は残っていない。私が返事として相応しい言葉を見つけ出すのを待っている。探す私と同じくらい、待つ花凜さんも苦しい時間。
風が遠くの木々を揺らす。グラスの表面を水滴が滑り落ちていく。カップがソーサーに置かれる硬質で微かな音。
「確かに、嫌だよ。父さんに嘘をつき続けるのも、花凜さんが嘘ついてるのを見るのも。……でも」
結局、言葉は、気持ちの混沌の中から飛沫のように飛び出た。私の脳裏には記憶が蘇る。情景も感情もあまりに鮮明な記憶。
朝から夜まで一緒に過ごすと予定して、三人で出掛けたあの日。三人ともがその日の特別性を分かっていたから、いつもよりぎこちなかった会話。夜のレストランで父さんがカバンから取り出した小箱。そっと開けられたその中で慎ましやかに輝いていたダイヤモンド。それを見た瞬間の花凜さんの瞳の光、そして私の胸にも確かにあったあたたかな気持ち。おめでとうと言いたくて、嫌だと叫び出したくて、涙を堪えるふりをして手で隠した、きつく噛み締めた唇。
あの日から今までに、積み重ねてきた過ちと同じ数だけのもしもを考えた。それらは大抵、現状のよりは幾分か救いのある未来に繋がっていて、同時に、選べないからこそのもしもだった。
「本当のこと父さんに話すなら、私、花凜さんと別れて父さんといる」
吐き捨てるように、ただの強がりを私は口にした。こんなのは子供の癇癪みたいなもので、もし本当にその時が来たとして、決断できる勇気が自分にあるとは到底思えなかった。それでも言うしかなかった。曖昧でどっちつかずなこの現状を、私はどうしても守りたかった。罪の意識と後ろめたさで苦しくて息もできなくなりそうでも、それでも私は、花凜さんを好きだという気持ちをどうにもできないから。
涙が滲んできて、私は咄嗟にきつく目を閉じた。頬に、そっと触れる花凜さんの指先。もうその触れ方だけで彼女の表情まで予想がつくくらい、私は花凜さんの指をよく知っていた。
「泣かないで。あなたが正しいから」
花凜さんはそう言うけれど、正しいことなんてきっと何もなくて、私たちの――私と花凜さんとそれから父さんの間には、ただ変えられない本当のことだけがあった。頑なな暗闇の中、私は花凜さんの手を握って、指を絡めた。その指の温もりが唯一、明かりではなくとも、灯火だった。
「――わたしも、珊海のことも、創さんのことも、愛してるわ」
何を話すでもないまま、氷が溶けて薄まりゆくコーヒーをゆっくりと飲んで、私たちはカフェスペースを後にし、最後の階へ上がった。最後の階はこの美術館と縁が深い二人の芸術家の紹介をするフロアで、これまでの階にあったそれぞれの緊張感が嘘みたいな、公民館みたいな気安い空気だった。展示されたそれ自体は素晴らしい絵たちが、何となく決まり悪げに見えてしまうくらい。
「何だか、今時不親切な建物だね」
踊り場を挟まず一階まで続く螺旋階段を下りる時になって、私はようやくそんなことを言えるくらいまで気持ちが落ち着いた。
「条例とかに引っかかってそうよね」
花凜さんもそう言って笑った。
出口の直前に飾られた最後の作品は、二枚の絵だった。通路の両側に向かい合わせで飾られたそれは、一枚は五年前に、もう一枚は三百年ほど前に描かれたもので、どちらも世界平和への祈りを籠めた作品だという。同じことを願った二枚の絵には、けれど何一つ共通点を見出せない。私と花凜さんは背中合わせみたいになって二枚の絵を交互に眺め、それについて何も語る言葉を持たないまま美術館を後にした。
「どうだったかな」
駐車場まで戻る中、恐る恐るといった風に花凜さんが問うた。素敵な場所だと思う、と私は答えたけれど、また来たいとは言えなかった。それが声色に滲んでしまっているのが自分でも分かった。
私と花凜さんを乗せて、車が走り出す。控えめな音量でラジオを流して、山道を下っていく。
シートベルトに意味もなく手を沿わせ、私は助手席にいた。時間はちょうどお昼時というくらいだったが、私はもうまっすぐ帰りたくて、でも途中の信号が一つでも多く赤になってくれればと願った。
下り坂が終わった頃、どう呼べばいいのか分からなくなってしまった彼女と一度だけキスをした。
車が海に背を向けてから少しして、私のスマホにメッセージの着信があった。
「父さんが夕飯作ってくれるって」
「あら、楽しみね。創さん、料理上手いよね」
「独学なんだよ」
「凄いね」
「ずっと、――任せっきりだったから。すごく頑張ってた。私も一緒に」
つい呑み込んでしまった言葉が、喉の奥にちくりと刺さる。
「でも、まだ夕飯って時間じゃないよね。どこか寄っていく?」
「……靴、ほしいかも」
「安いの? ちゃんとしたの?」
「安いけどちゃんとしてるように見えるやつ」
「そうね。じゃ、買い物して帰ろうか」
花凜さんがウインカーを出し、ハンドルを握り直す、その指の動きを私は見つめる。隣にいるひとの顔へ視線を動かせないまま、フロントガラスの向こうを見遣ると、真っ直ぐな道の向こうに大通りとの合流地点があった。
再び、私たちの間に沈黙が下りた。線香花火がぽとりと落ちた後の瞬間みたいな沈黙。それを合図と受け取って、私は手首にあったヘアゴムを指先へ移動させ、髪を結おうとした。
――それを、花凜さんの手が掴んで止めた。
そして唇が重なった。花凜さんにしては珍しい、押しつけるような、少し強引なキス。思わず見開いた目、視界の端で信号が赤になるのが見えた。呼吸の準備もしないまましたキスは、二秒も保たずに途絶えて、ただ余韻と呼ぶには強すぎる感覚と熱が、縋るように唇に残響した。
「おかえり」
フライパンを手に、キッチンから父さんが言う。私と義母さんはただいまの声を揃える。結局靴屋を三軒回ったけれど私の靴は見つからず、義母さんが服を一着買った。
「はい、お土産」
私は手にしていた小さな紙袋をダイニングテーブルへ置く。父さんは待ちかねていたようにIHのスイッチを切って、紙袋の中を覗き込む。中身はキューピッドの形をしたクッキーと、数枚のポストカードだ。
ポストカードを手に取って一枚一枚眺めていき、父さんがふと首を傾げる。
「んん……? これは一体」
「ああ、あのオブジェの?」
苦笑しながら、私は義母さんの方を見る。分かりやすく名画や名作と言えるものの他に一枚だけ、前衛芸術の名状しがたい混沌のオブジェが撮影されたものがあったのだった。
「だからやめようって言ったのに」
「花凜さんが選んだの?」
「ええ、まあ――」
義母さんは一瞬驚いたような顔を、次の一瞬に全ての感情が抜け落ちた顔をして、それから可笑しそうに肩を竦めた。
「やっぱり、分かんないかぁ」
「あ、何だよそれ」
父さんがカードを手にずんずん居間へやってきて、義母さんと議論し始め、けれどそれは間もなく談笑に変わっていく。義母さんの顔にも、もう誤魔化しや嘘はなかった。ただの仲睦まじい夫婦がそこにあった。そして、その様子を見てほっと安らぎを覚えている自分もまた、確かに存在していた。
全てが元の場所に戻っていた。
だから、初めて嘘をついたあの日からずっと私の後ろにいるもう一人の私も、やっぱりそこに佇んでいた。じっと、微笑する私を見つめていた。
記事を書く時間もなけりゃ記事のネタもないので過去作です。
「君の知らない君への祈り」
https://note.mu/meltymaze/n/n2cd9a264fa2d
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