ついのべまとめ

【創作小説】君の知らない君への祈り

 スマートフォンから響く素っ気ないアラーム音で目を覚まし、怜は誰に憚ることもなく大あくびをした。緩慢な動きでアラームを止めると日付が目に入り、ああ、と小さな声が漏れた。菜々緒がこの部屋を出ていって、今日でちょうど二ヶ月だった。
 ダブルベッドの使われなくなった半分へと、知らず視線が向いた。モノトーンの調度で揃えた寝室の中で、そこに残ったままの菜々緒の枕だけが、ぽっかりとパステルブルーだった。
 もたもたと布団を抜け出し、とりあえず寝室を出る。既にエアコンが自動運転を開始していて、リビングは人工の温もりに包まれていた。カーテンを開けると、平凡な住宅街を朝の陽光が平凡に照らしていた。
 何か音がほしくてテレビをつけると、アナウンサーがいかにも深刻そうな声で殺人事件のことを語っていた。ニュースは政治家の発言問題、海の向こうの経済危機と続き、それからころりと声色を変えて人気ガールズバンドの新曲について伝え始める。菜々緒が好きだと言っていたバンドだ。
 いつもならうんざりして他のチャンネルを探す頃だったが、今日の怜はリモコンをローテーブルに置いて、朝食の支度を始めた。
 トースターに八枚切りの食パンを二枚。小ぶりのフライパンに油を敷いてIHのスイッチを押し、それから冷蔵庫を開けると、あると思っていた卵が見当たらない。溜め息をついて、仕方なくベーコンだけ出す。敷いた油はベーコンを焼くだけにしては多かったが、もう一品と言うほど空腹でもなければ、料理に積極的でもなかった。
 戸棚からインスタントコーヒーの瓶を取ろうとすると、その隣にあるコーヒーミルとキャニスターが目に留まった。菜々緒がいなくなってから一度も出番がないそれらを、怜は少しの間だけ見つめてから、瓶を手にして戸棚を閉めた。インスタントコーヒーの瓶の中身はもう三割を切ったくらいで、これも買いに行かなくてはならなかった。
 レタスをちぎり、マーガリンを塗ったトーストにベーコンと共に挟んで、雑なサンドイッチにした。一口囓ると、やはり卵がほしかったと思わせる微妙な味がした。
 ――ぼんやりとテレビを眺めながらサンドイッチを食べ終え、コーヒーを飲んでいる途中で、自分が立ったまま食事を済ませていることにふと怜は気付いた。こちらに背を向けるブラウンのソファには確か、昨日帰ってきて脱ぎっぱなしにしたスーツとコートがそのままになっていた。
 コーヒーが残るマグカップをシンクに置き、スーツとコートを拾って、寝室のクローゼットへ掛け直す。あまり几帳面とは言えない怜だが、一人で暇を潰す手段に乏しく、掃除や整理整頓くらいしかやることが思いつかないので、結果この二ヶ月間部屋が荒れたことはなかった。今日もそういう風に過ごすのだろう、と怜は他人事のように考えた。


 丸っこいシルエットをした軽自動車のエンジンをかけると、朝のニュースでも聞いたガールズバンドのCDがかかる。運転しながら口ずさめる程度には耳に馴染んだ曲。メインボーカルのまっすぐな声は、そういえば何となく菜々緒の声に似ているような気がした。
 最寄りのスーパーではなく、もう少し走ったところにある業務用スーパーへ向かう。右折入場禁止の看板を見て見ぬ振りをするのにまだ少し気が咎めるが、今日は割合すんなり入ることができた。
 カートを押して店内を回る。チープな音と冗談みたいな歌詞で果物や肉を賛美する曲が売り場ごとに流され、店内BGMと重なって混沌としている。誰かが商品を落とした音や、子供が意味もなく上げる甲高い声が、一人で来店するといやに気になってしまう。
 どうするべきか迷って、結局一人分のつもりで食材をカゴに入れていく。特に何を食べたいという欲求もないので、安さを謳う商品が並ぶ中でも特に安いものを幾つか手に取り、そこから夕飯を決めることにした。大抵いつもそういう流れだ。
 人参、じゃがいも、玉葱。最初に思い浮かんだのは肉じゃがだったが、一人で作って一人で食べる料理ではないような気がしてしまい、次に浮かんだカレーという案を採用した。そもそも料理は大体菜々緒がやってくれていて、怜はあまり得意ではないから、レパートリーも多くないのだった。
 適当な食材たち、カレーのルー、卵とインスタントコーヒー。自分一人にだけ必要な物を黙々と品定めしていく、面白味のない時間。
 菓子の材料が並ぶ棚に差し掛かり、立ち止まって、ホットケーキミックスとチョコチップをカゴに入れる。
 精肉のコーナーで、一人分に小分けされているという鍋のスープの素を見かけ、何の気なしに手に取った。いっそこの手の商品が並んでいる間はずっとこれでいいのでは、という考えが浮かぶ。さすがにそれは、と躊躇いつつも、二種類を一パックづつカゴに入れた。
 買い物を終えて車に戻ると、買い物袋二つと共にカバンを後部座席へ置いた。空っぽの助手席に、空っぽだからと何か荷物を置いたことは、一人になってからこっち一度もなかった。
 アラームを止めた途端に訪れる静寂、誰と話すでもなく眺める朝のニュースの空々しさ、寝ぼけ眼で握るフライパンの重さ、ビニール袋が両手に食い込む痛み。それらは怜の中で既に新鮮さをなくし、哀しさや冷たささえなくして、透明になって日常と一つになりつつあった。
 けれど、そうなりゆくことにまだ抵抗を覚える。それはきっと、なくしてはいけない気持ちだった。

 アパートの一室を二人で借り始めた時、怜は社会人デビューを控え、菜々緒は三年次の時間割について考えていた。進路については特に悩む様子もなく、友人に訊かれればへらへら笑いながら永久就職と答えていたらしい。
 今時そんな言葉も死語だろうとは思いつつ、本当にそうなる可能性までは怜は笑い飛ばすことができなかったし、菜々緒もあながち冗談で言っているばかりでもなかった。それくらい、このひとだ、とお互いを感じていた。恐らくは、初めて出会ったその時から。
 だから二人暮らしが始まったことも、それからの役割分担も、二人の中ではこれまでの日々から必然的に導かれた在り方だった。怜は働き、菜々緒は大学生の間はバイトをしながら、卒業してからは短時間のパートタイマーをしながら、家事を担当した。
 一緒に過ごすこと、一緒に暮らすこと、一緒に生きること。怜も菜々緒も、それに何の違和感もなかった。時には興味の赴くまま二人で出掛け、幾つかある菜々緒の趣味を共有し、戯れのように将来の話をし、節目には少し高価な酒を酌み交わし、ことばの不自由さに耐えかねれば肌を重ねた。
 菜々緒はずっと自分と一緒にいてくれるだろうと、怜は信じていた。
『怜ちゃん。――話があるの。大事な話』
 だからあの日、菜々緒が切り出してきた話を理解するのには、随分と時間がかかった。


 部屋を出てから最初の一週間くらいは、菜々緒は毎日怜に連絡をくれていた。
 それは時に電話だったりメッセージアプリだったりしたが、怜は応えるべきなのかどうか迷い、そして菜々緒に連絡をしてこないよう言った。菜々緒にとって面倒だろうし、怜としても出ていった相手からの連絡をどんな気持ちで受ければいいのか分からなかった。何より、連絡ひとつでも自分との関係を繋ぎ続けているのは、不誠実なのではないか、と思ったからだった。
 このまま一生一人で生きていくのではないかという、漠然とした、けれど奇妙にはっきりした手触りのある発想が頭をよぎり始めたのは、そうして菜々緒との連絡を断って一週間ほどしてからのことだった。二人で暮らすために借りた、二人で暮らしていた記憶と痕跡が満ちた部屋で、一人で暮らす。その孤独感は怜の想像よりも遙かに重く心へのしかかってきた。
 誰も待っていない家に帰るのが嫌で、わざと会社に残ったり、食べたいものもないのに夕飯を外食にしたりした。菜々緒が残したものの全てを片付けてしまいたい、菜々緒に伝えないまま引っ越してしまいたい、そんな衝動が立ち上がってくることさえあった。
 菜々緒は、きっと帰ってくるのだから。そう何度も何度も自分に言い聞かせて、衝動を抑え込んだ。――それでも、あの手紙が送られてこなかったら、今頃きっと自分は駄目になっていただろう、と怜は思う。

 一人で部屋に帰ってきて、ただいま、と言ってしまうこともいつの間にかなくなっていた。買ってきたものを冷蔵庫や棚に仕舞うと、昼食の準備を始める。
 夕飯のメニューにはいつも悩むが、菜々緒が出ていってから、日曜日の怜の昼食は決まってホットケーキだった。ホットケーキミックスの袋に書いてある通りではなく、トッピングを工夫したり生地に色々と混ぜてみたり、毎回アレンジを加えてみている。
 ホットケーキは、甘党な菜々緒が特に好きなものだった。いつも自分で焼いて自分で食べて、幸せそうな顔をしていた。そしてそういう菜々緒の顔を見るのが怜は好きだった。だから、いつか菜々緒が帰ってくる時には、ホットケーキを焼いて迎えてやりたかった。日曜の昼はそのための練習に充てている。何を食べるか悩むのが煩わしい、という理由もなくはないが。
 細かくしたバナナと、買ってきたばかりのチョコチップを生地に混ぜて、小さめのフライパンで二枚焼き上げた。間食ではなく普通の食事にこうして甘いものを置くのも、思い返せば菜々緒と出会う前はとても考えられなかったことだ。
 ナイフを出すのが面倒で、フォークで切ってそのまま刺して口に運ぶ。想像通りの味。ブラックコーヒーには合う。尤も菜々緒はコーヒーをブラックで飲めない。わざわざミルで挽いてドリップしたコーヒーに砂糖とミルクを入れるのは、怜からすれば勿体ないことだった。
「……」
 一枚目を食べ終えて、フォークを置いた。味は真っ当に出来たホットケーキは、けれど色味と形があまり綺麗に仕上がっていなかった。菜々緒が作ると、どんなアレンジを加えても、いつもまるで満月みたいに仕上がっていたのに。
 テレビも点けないでいる部屋の静寂が、急に耐えがたいもののように感じられ始めた。どうにか慣れてきたと思っていたのに、ちょうど二ヶ月だなどと余計なことに気付いてしまったから、今日はいやに菜々緒のことが頭に浮かぶ。
 マグカップから香りを孕んだ湯気がのぼる。エアコンが適正に調節して吐き出すあたたかな空気が部屋を満たしている。子供が笑いながらアパートの前を走っていき、立ち止まらずにそのまま過ぎ去っていった。
 小さく溜め息をついて、もう一枚のホットケーキにフォークを入れた。食べ終えたら少し昼寝でもしよう、と半ば自棄のように考えた。


 眠気は想像よりも早く訪れ、また深く怜を誘った。皿とフォークをローテーブルに残したままソファに横たわり、二時間ほど怜は夢も見ずに眠った。
 やがて理由もない眠りから理由もなく覚めると、靄がかかったような意識のまま、飲みかけだったコーヒーを呷った。すっかり冷め、粉が沈殿して、お世辞にも美味しいとは言えなかった。
 横向きに寝ていたせいで潰れてしまった右側の髪を手櫛で直していると、ローテーブルの隅で、スマートフォンが電話の着信音を鳴らしながら震えた。まさか会社ではあるまいなと顔を顰めつつ、怜はスマートフォンを手にとった。
 菜々緒からの着信だった。
 思わず、息を呑んだ。ぼんやりしていた意識が一瞬で覚醒して、だが怜は画面を見つめたまま何もできなくなった。心臓ばかりが急かすように早鐘を打つ。
 連絡を絶つよう提案してから、菜々緒が電話をかけてきたのは初めてだった。――それには重要な意味があるに違いなかった。それを考えれば、この通話を受けるのはひどく怖いことだった。いっそ電源を落としてしまいたいくらい。そうすれば、嫌でも予想してしまうこの悲しみが現実にならないまま、菜々緒は優しい世界を生きていられるのではないか、などと夢想してしまうくらい。
 けれど、逃げるわけにもいかなかった。そもそも菜々緒を見送ったあの日から、いつかこの時が来ると分かっていたのだ。自分の胸に、そしてきっと菜々緒の胸にもあった、相反する二つの願いに、不可避の結末が訪れるこの時が。
 意を決して、通話ボタンをタップした。
「もしもし」
 こんな他愛ない一言を、腹に力を籠めて、努めて平静な声でと意識して発したのは、初めてのことだった。
『……もしもし』
 抑えられた、苦しそうな声。久しぶりに聞く彼女の声がそんな風であることに、怜は唇を噛んだ。
「菜々緒――」
『怜ちゃん。……ん、ちょっと、待って』
「うん。待つよ。ゆっくりでいい」
『ありがとう』
 電話の向こうから、慎重な呼吸音と、小さく洟を啜る音。その後ろからは何の環境音も聞こえてこない。不気味なほど静かな場所に菜々緒はいる。
『怜ちゃん。あのね』
「うん」
『……っは……来週、くらいには帰るね』
「分かった。私は大丈夫だから、最後までちゃんとしてきなね」
『うん。ありがとう。ほんとにありがとうね。私、怜ちゃんが、……』
 そこで、菜々緒は言葉を止めた。――続けてしまいそうだったら、怜も止めるつもりだった。菜々緒がそうしなくてはいけないことを言いかけたと、今の一瞬でも怜には感じ取れていた。
『えっと。多分、来週帰ります』
「うん。日にち決まったら、教えて」
『ん。じゃあ、また』
「またね」
 ――通話を切ると、怜はその場にへたり込みそうになった。知らず体中に力が入ってしまっていた。きつく目を閉じながら、細く長く息を吐いて、自分の中を整理する。
 あと一週間で、菜々緒が帰ってくる。それは辛いけれど嬉しく、幸せだけれど哀しいことだった。
 どんな顔をして迎えればいいのか。迎えて、その後はどうすればいいのか。何も分からなかった。見当もつかなかった。ただひとつ、ホットケーキを焼いておくことだけは決まっていた。それだけでも決めておいてよかった、と心から思った。

 翌週の土曜日、菜々緒は帰ってきた。午後三時を僅かに過ぎたくらいでの帰宅は、まるで甘いもの好きの菜々緒がおやつを食べに帰ってきたみたいだと、少し可笑しく思えた。
「ただいま」
「おかえり」
 それだけ言って、怜と菜々緒は玄関で立ち尽くした。二ヶ月以上ぶりに再会して、今日からまたこの部屋で共に日々を過ごしていけるのだ――体中に染み渡っていくようなそんな実感、それこそが二人を動けなくしていた。
「……とりあえず、上がりなよ」
 体感としては何分もの間沈黙を扱いあぐね、やっと怜は言葉と手を差し出すことができた。菜々緒は小さく頷いて、開けっ放しだった扉を閉めると、怜の手に自分の左手を重ねた。
 その薬指に細く指輪の痕があることに、怜は気付く。怜の視線に気付いて、菜々緒は苦笑いを零した。
「バツイチになっちゃった」
「いいよ。気にしない。何て言うか、名誉の負傷じゃん?」
「あはは。何それ」
「ホットケーキ焼いたんだ、時間的にちょうどいいし食べない?」
「ほんと? 嬉しい。怜ちゃんの手料理なんていつぶりだろう」
「手料理ってほどでもないけど」
 怜の手に掴まって、菜々緒がようやく靴を脱ぐ。膝近くまであるダークブラウンのブーツ。高めのヒールがこつりと音を立てる。
「荷物、そんなにないけど、四時頃に纏めて届くから、手伝って」
「うん」
 頷きつつ、怜は重なった手を無意識に握ってしまった。そのままリビングまで、菜々緒をエスコートするかのように進んでから、はっとして手を離した。菜々緒が小さく笑う。
「え、無意識だったの?」
「ごめん――」
「ううん。でも何か、新鮮だね。こんな怜ちゃん」
 思いも寄らない理由で二ヶ月も一人暮らしをして、久しぶりに恋人と再会したのだ、これまでと違う言動くらいはする。――そう心の中でだけ怜は言い返して、声には出さずに、曖昧な微笑みをつくった。
 リビングでは、ちょうど菜々緒が帰ってくる直前に焼き上がったホットケーキが二人を待っていた。菜々緒は身を屈めて、立ち上る湯気の香りを確かめ、顔を緩ませる。
「いい匂い。紅茶?」
「うん。お湯で出したのと、茶葉も混ぜてあるの」
「へえ、美味しそう! わくわくしてきた」
「コーヒー飲む? インスタントでよければ」
「うん、もらう」
 菜々緒が荷物を置いて着替え、手洗いとうがいをする間に、怜はコーヒーを二杯淹れる。自分の分はブラックのまま、菜々緒の分にはミルクと砂糖を加える。色違いのマグカップを二つ、それぞれの皿の横に置いてから、ホットケーキへ蜂蜜をかけた。


 紅茶のホットケーキはお気に召したようで、菜々緒は怜より何口か早く食べ終え、怜が食べるのをにこにこしながら眺めていた。普段は逆だったような気がしながらも、怜は妙にまっすぐな菜々緒の眼差しを甘んじて受けた。食事の間、言葉は交わさなかった。
 ややあって怜は最後の一切れを口に運び、菜々緒はコーヒーを啜って小さく息を吐いた。二人を包み込む時間のゆるやかさ、空間のあたたかさは、どこかあざとくて、二人もそれをお互いに自覚していた。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
 言葉のみの怜と、ぺこりと頭を下げる菜々緒。怜は先んじて動き、二人分の皿とフォークをシンクへ片付けた。菜々緒に背を向けている隙にゆっくりと呼吸をし、頭の中で文章を整えてから、振り返りざま言葉にした。
「そういえば、ミルと豆さ、何で持っていかなかったの? 私が使うって思ったわけでもないでしょ」
「ああ、いや、普通に忘れただけ。向こう着く前にはもう気付いたんだけど、取りに戻るのも何だしと思って……」
「まあ、ねえ」
「ずっとそこに置いててくれたの? ありがと」
「くれた、ってほどのことでも。そのままにしてただけじゃん」
「そのままにしてくれてたのが嬉しいの。――帰ってこないかもとか、思わなかった?」
 二ヶ月ぶりのこの部屋に少しづつ慣れてきたのか、菜々緒はもう一歩踏み込んだようなことを口にし始めた。
 怜の脳裏には、一通の手紙のことがよぎる。
「……思わなかったって言ったら、嘘になるかな、正直。でも、色々考えたりして、何とか耐えたよ」
 自分の力だけで凌いだかの如く語ることに、怜は罪悪感を覚えずにはいられなかった。しかし自分を助けてくれたあの手紙のことは、菜々緒にだけは教えられなかった。語られた願い、託された祈りを、約束に変えて守っていく責任が怜にはあった。自ら背負うと決めたそれの重みに改めて息を呑みながら、怜は菜々緒の向かいに座り直した。
 菜々緒が、また何か問いかけようとする素振りを見せた。しかしそれはチャイムが鳴らされたことで中断された。菜々緒が向こうへ持って行った衣類やお気に入りの本などが届けられ、二人はそれを荷解きしながら、次の話題とその切り出し方をそれぞれ考えることにした。


 服をクローゼットに戻し、本をリビングのラックに戻し、化粧品とキツネのぬいぐるみをベッドサイドの棚に戻した。そうして全ての荷物を片付け終え、ふと壁の時計を見遣ると、想像よりも時間が経っていて、怜は頭を掻いた。隣で菜々緒が大きく伸びをして、さて、と何かを振り払うように声を出した。
「とりあえず晩ご飯の支度するね。同棲再会記念で、ちょっと張り切っちゃうよ」
「あいや、今日はゆっくりしときなよ。私がやるよ」
「ええ? 大丈夫? 怜ちゃんって料理できたっけー? ホットケーキはできてたけど」
「菜々緒ほどじゃないけどね。これでも一人で二ヶ月生き延びたんだから」
「そっか。じゃあ、お願い」
 力を抜いて、菜々緒はソファに腰を下ろす。勢いで引き受けたものの材料は何があったかと、怜は食材の棚のカーテンをめくった。一人暮らしがまだ続くかと買ったものが、一番手前にあって怜を迎えた。
「ねえ、菜々緒」
「んー?」
「鍋でもいい?」
 菜々緒はきょとんとして、それから堪えきれなくなったように笑い出した。
「なによ」
「いや、ううん、いいね鍋、もうそういう時期だもんね。あったかくていいじゃん、そうしよう」
「はいはい、そうしましょう。魚介出汁と豆乳鍋、どっちがいい?」
「んー、魚介」
 答えつつ、菜々緒も棚の中身を見に怜の隣へ来た。カップスープや乾麺、様々な料理の素などが仕舞われている。怜と二の腕をくっつけながら菜々緒が棚を覗き込む。
「あ、正直もっとインスタント系買い込んでると思ってた。ていうかそうだよね、鍋できるってことは野菜とかがあるってことだもんね。そこそこ料理してたんだね。偉い偉い」
「偉いでしょう。もっと褒めて」
 怜が笑いながら言うと、僅かな沈黙の後、菜々緒は怜を抱き締めた。褒めてくれた、と怜は最初単純に思ったが、間もなくそうではないと気付いた。気付かせたのは、菜々緒の腕に籠もった力の強さと、細い体の小さな震えだった。
「怜ちゃん」
「ん」
「あったかいね」
 どう返事をすればいいのか分からなくて、怜は代わりに菜々緒の髪を撫でた。菜々緒は更に強く怜を抱き締めてくる。大した身長差はないはずの菜々緒が、ひどく小さく見える。
「雪音の手、ずっと冷たかったの。二ヶ月一緒にいて、一度も、あったかくなかった」
 吐息混じりの言葉はそこで途切れ、後には涙だけがぽろぽろと零れた。それを拭ってやることすらできない指を、怜は菜々緒の髪に通し続けた。雪音、と、迷子のような消えそうな声でもう一度、菜々緒はそのひとの名を呼んだ。

 怜と菜々緒は二人で暮らす日々に帰還した。かつて当たり前だった様々な感覚や習慣を、なぞるように一つ一つ確かめていき、一週間もすると二人はいつも通りを概ね取り戻した。
 けれどやはりそれは、菜々緒が部屋を去る前と全く同じではなかった。螺旋を描いたように、同じに見えても確実に何かが変化していた。――いつも通りであることが、二人にとってあまりに尊くなりすぎているのだった。それはいつも通りという名の特別な日々だった。
 重い、などとは思いたくなかった。この変化をもたらした存在について考えればなおのことだった。だが――次第に怜は、この日常、そして菜々緒というひとが、まるでガラス細工の如く思え始めてきてしまった。肌を重ねるどころか、手を繋ぐことさえ恐ろしかった。途方もなく莫大で暗澹としたものが自分たちの寸前でせき止められていて、何かほんの下らない切っ掛けで堰は切れ、自分と菜々緒と二人を取り巻く何もかもが攫われて砕かれてゼロになってしまうのではないか、そんな想像さえ浮かぶようになった。


 帰ってきてから一ヶ月と少しが経ったある休日、菜々緒は怜を連れて行きたい場所があると言い出した。具体的なことを菜々緒は言わなかったが、怜にはそれがどんな場所なのか分かりすぎるくらい分かった。
「ここで合ってる……?」
「合ってる。最初はえっ? て思うよね。でも、ここにいるの」
 尤も、菜々緒に案内されるまま車を走らせて到着したその場所は、怜の想像とは随分違う外観をしていた。大きめの駅から歩いて十分ほど、何でもない顔をして街中に建っている、それはまるで小綺麗なマンションのようだ。
 自動ドアをくぐると、広々としたロビーは無闇に何もかもが磨き上げられた光沢を放っていて、怜は目を細めた。ここが決して不浄な場所ではないのだと大声で言い聞かせられているような気分だった。菜々緒がややぎこちなく受付を済ませ、二人エレベーターで三階へ上がる。
 三階は、寺で見るような大きな仏像の鎮座する本堂だった。菜々緒が持ち込んだ線香をそこにあげ、手を合わせた。菜々緒は何も言わなかったが、怜もそれに倣った。
 怜が合掌を終えてから菜々緒が終えるまでの三秒、怜は菜々緒の横顔を見つめた。垂れた前髪が影を落とした菜々緒の横顔は、怜の想像の及ばないものを秘めた深淵のようだった。菜々緒のそんな表情を、怜は知らなかった。
 本堂を後にし、エレベーターで四階に上がる。――そのフロアは、一面に扉を閉じた仏壇がずらりと並んでいた。フロア全体を、あらゆる匂いの取り除かれた暑くも寒くもない空気が満たし、ひたすらに真っ白な光が照らして、耳の痛くなるような静寂が浸していた。
 怜には何もかもが異様としか感じられないその中を、菜々緒は迷いなく奥へ進んでいく。何列にもわたって並ぶ仏壇、その中の一基の前で足を止めると、バッグからカードを取り出して翳した。小さな機械音がし、扉が開く。
「雪音」
 何の変哲もない、きっと並んでいる全てが同じ中身をしている仏壇。菜々緒はそこに彼女を見出して、囁くように語りかける。その素朴な信仰は怜の死生観とは違っていた。怜は仏壇ではなく、それを見つめる菜々緒の横顔に視線を向けた。
 雪音――この場所にただ一人で眠るひと。
 およそ二ヶ月の間だけ、菜々緒の伴侶だったひと。
「来てくれたから、改めて紹介するね。怜ちゃん、私の恋人。写真見せたっけね」
 菜々緒の目にだけ視えている彼女に、怜はとりあえず軽く会釈をしてみる。
「私、雪音のせいでバツイチになっちゃったけど、怜ちゃんは変わらず私と一緒にいてくれてるよ。だから安心して。……雪音ね、怜ちゃんに何度もありがとうって言ってた」
「……感謝されるってのも、何か違う気がするけどね」
 絡まった感情に言葉が通らなくて、怜はそんな曖昧なことしか口に出せなかった。その言葉か髪を触る仕草かが、偶然雪音の何かを想起させたようで、菜々緒は泣きそうな目をして微笑んだ。
「やっぱり、生きてる内に会わせてあげればよかったな。それはほんとに、後悔してる。雪音と怜ちゃん、きっと仲良くなれたのに」
「そうかな」
「私はそう思うよ。少なくとも、ほら、女の好みは合ってる」
 茶化すでもおどけるでもなくまるっきり尊ぶような口調でそんなことを言うので、怜はさすがに笑ってしまった。
「まあ、そうだけどさ」
 元々、菜々緒の親友のひとりとして、雪音の名前や人となりは時たま菜々緒の話の中に出てきていた。人懐っこい菜々緒の、沢山いる友人の中でも、とりわけ大事なひとなのだ、ということは怜も分かっているつもりだった。――それでも尚、あの日思い詰めた顔で菜々緒が持ちかけてきた相談は、すんなり理解できるものではなかった。
「改めて、ありがとうね、怜ちゃん。いくら親友としてのことだって言っても、突然他の子と結婚したいなんて言い出したのに、認めてくれて」
「うん、……」
 菜々緒が望んでいる言葉も、この場において相応しい言葉も、どころか単純に自分が伝えたい言葉さえ見失って、怜はゆっくりと首を縦に振るしかできなかった。
 怜の脳裏には、再び一通の手紙のことがよぎる。それは菜々緒が部屋を出ていった三週間ほど後、怜の元に届いた手紙だった。差出人は、雪音。菜々緒のスマートフォンに入っていた住所を盗み見でもしたのだろう。
 菜々緒がいない間は怜を支えてくれたその手紙が、今はどうしようもなく怜を苛む。自分よりよほど傷ついて、痛みを堪えているはずの菜々緒に、怜は縋り付きたくなって、言葉が口を衝いて出た。
「ねえ、菜々緒」
「うん?」
「私たちも、いつか結婚するのかな」
「喪が明けたら、しようよ」
 ――わざと揺らぎを持たせた、意地の悪い怜の問いかけに、菜々緒は一瞬の躊躇いもなく答えた。
 まっすぐに迷いなく、菜々緒は怜の目を見ていた。その瞳には数え切れないほど沢山の感情が滲んでいたが、きっとそのどれもが、怜と雪音への愛だった。
 不意打ちを受けたような驚き、それからふっと肩の荷が下りたような感覚があって、息苦しさばかりを感じていたこの空間を、怜はやっと優しく神聖なものだと再認識することができた。途端に目が潤んできて、怜は視線を仏壇の方へ逃がした。菜々緒が小さく笑う気配がした。
 自分が思っていたよりもずっと、菜々緒は強いひとだったのだ。そんなことを、怜は今更になって理解した。そして、菜々緒が持つその強さを自分も手に入れたいと切に願った。
「ね、怜ちゃん。雪音のお墓参り、これからも付き合ってくれる?」
「……私にとっても、大事なひとだから」
 心からの言葉と共に頷くことができて、怜は自分に少し安心した。これからも菜々緒を愛し続けるのなら、それはきっと、彼女の中に息づく雪音をも纏めて愛することだから。
「じゃあ、そろそろ行くね。また来るよ。怜ちゃんも一緒に」
 語りかけて、菜々緒が左手で仏壇の扉を閉めた。その薬指からもう消えてしまった指輪の痕、その記憶を怜は心に刻んだ。
 身を翻した菜々緒の右手を怜はそっと取った。菜々緒は怜の手を緩く握り返し、そしてどちらからともなく指を絡めた。二人の足音が、微妙にずれながら、静謐な空間に響き、とけていった。

『怜 様
 はじめまして。
 この度、菜々緒と結婚させていただくことになりました、雪音です。
 名前くらいは聞いているだろう、と思っていたのですが、先日尋ねてみたら菜々緒は随分私のことをたくさんあなたに話していたようで、本当なら何と言いますか、お恥ずかしい限りです。
 菜々緒の恋人さんということで、一度くらい直接お話をしてみたかったですが、もはや私はそれも叶わない身となりました。ただ、どうしても伝えたいことがあって、このお手紙を書いています。

 私はずっと、自分の心に正直に生きていこうとしていました。
 けれど、きっと運が悪かったのでしょう、結果として親は私を見捨て、友人もぽろぽろと減っていきました。ゼロにはなりませんでしたが、両手の指で数えられるくらいにまでは。
 くわえて、特に不摂生をしていた覚えもないのに、今の技術では治療不可能な病気をしました。私はもうすぐ死ぬそうです。
 つくづくとんでもない人生でした。

 同情を誘いたがっているような書き出しになってしまいましたが、そういうわけではないのです。
 私は一人で死ぬのが怖くて、結婚してほしいと菜々緒にお願いしました。もちろん恋愛結婚という意味ではなく、婚姻関係(と同等の関係)になれば、私の状態が悪化していっても、可能な限り最後まで一緒にいてもらえるからです。
 余命いくばくもない女の人生最後のわがままですが、それにしたって重すぎる話ですよね。
 菜々緒は沢山悩んで、あなたとも話し合って、私の申し出を受けてくれたのでしょう。優しさだけじゃなくて、もっと複雑な気持ちの中で決めてくれたことだと思います。
 でも、私の本当の気持ちを知っていたら、うなずいてくれたのかどうか分かりません。うなずいたにせよ断ったにせよ、菜々緒を苦しめることでしかないと思ったから、隠していました。けれど、あなたには言っておきたいと思います。そのために、こうしてお手紙を書いています。
 私はずっと、菜々緒のことが好きでした。
 自分に正直でいたくて、そのために寂しくなっていった私なのに、最期に一人になりたくなくて、自分の心を隠しました。そして好きなひとをも騙しました。情けない話です。理不尽な病気で死ぬことよりも、こうして恋に屈したことの方が、悔しいかもしれません。

 私が死ぬまでの残りの時間、恐らく三ヶ月もないと思いますが、それまでの間だけ菜々緒をひとり占めさせてください。菜々緒と(に)何をするつもりもありませんが、手を握るくらいは許してください。
 そして、菜々緒があなたの元へ帰ったら、彼女のことをよろしくお願いします。
 あなたと菜々緒の未来を祈ることで、弱くて情けない私の罪のせめてもの償いとさせてください。

 直接会ったこともないあなたに突然のお手紙を出し、こんな勝手なお願いをしてしまって、ごめんなさい。
 もしちゃんと顔を合わせる機会があれば、あなたともきっと友達になれたような気がします。でも、そうならなかったからこそ、こんなお願いをすることができるのだと思います。

 長文乱文、失礼しました。お返事は書いて頂かなくても結構です。
 それから、このお手紙のことは菜々緒には秘密にしてください。
 あなたと菜々緒のこれからが幸せであるよう願っています。
 それでは。

雪音』


note用に何か書く余裕が割となくなってしまっているので昔書いた小説でお茶を濁す。
pixivの百合文芸コンテスト、入賞作をまとめた冊子が夏コミで出るらしいので、入り損ねた作品ですということで。

オリジナル百合短編を七編ほど詰めた短編集を出す予定で、これも収録されるので、発刊の際にはこの投稿は消します。


解題:https://note.mu/meltymaze/n/n37273543da3e

こちらはいわゆる投げ銭機能です。頂いた収益は秋山幽の健康で文化的な生活を維持するために使われます。