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突然わずらわしくなった”苗字”の存在。

私は生まれてからずっと、対外的に名乗る苗字を変えていない。結婚して戸籍上の苗字は変わっても、ずっと元の苗字を名乗ってきた。

このスタンスは、多くの人に"夫婦別姓制度支持者"と捉えられる。自分のアイデンティティでもある名前の半分を、入籍したからといって片方が変えなきゃいけないのは、確かに納得がいかない。私も「夫婦それぞれが苗字を選択する権利」が認められるべきだと思っているから、そういう主張を持って旧姓を使っている”風”にやってきた。

だけど実のところ、私が旧姓である「村崎(むらさき)」をつかうのは、単に「この苗字のほうが好きだから」である。

スマホには苗字の由来を調べるアプリを入れ、珍しい苗字の人に出会うとすぐさまそれを使って調べてしまうくらいに珍しい・おもしろい苗字を愛する私。青春時代の夢は、「今よりもっと珍しい・おもしろい名前の人と結婚して名前を変える」だった。嫁入り改姓制度をガンガン利用しようとしていた。

ところが夫の苗字には、夢見ていたほどの魅力を感じられず。(注:でも十分に素敵だと思う。)それなら旧姓のほうがキャッチーだし覚えてもらいやすいし、旧姓を名乗ろう、と思っただけのこと。

そのくらい、「むらさき」が持つインパクトの強さはスゴイ。名乗るだけで相手に色でイメージを持ってもらえるし、再会した時に名前を忘れられていた経験があまりない。この名前のおかげでたくさんいい思いをしてきたのだと思う。新姓で行動する時(銀行や病院など)、信じられないほど頻繁に呼び間違えられるので、そのパワーをつくづく実感する。

最近、自分の成し遂げた仕事を世に出すときにこの苗字を使うことに抵抗を感じるようになってきた。成果物に「村崎さんがつくった」というフィルターが欲しくない、という言い方が正しいのかもしれない。

はじめは逆だった。元々は自己顕示欲の塊で、自分の名前を世に出したかった。だから覚えてもらいやすい旧姓でやり続けた。組織を出て独立したこともあり、ますますこの名前で世の中に発信するモードになっていたはずなのに。

独立して少し経ち、変わってきた感覚の一つが、”自分の名前”が認められるよりも、”自分の仕事”が一人歩きして評価された時の方が嬉しい、ということ。私のことを認めていない人は、私の名前で出した仕事を評価しないだろうな、と想像したときに、「ああ、名前って、めんどくさい」と、思ってしまったのだ。

すると、誰にでも覚えてもらいやすい苗字は、突然、”目立ちすぎる苗字”に。なるべく名前の存在感を消して、成し遂げた仕事に一人世の中を泳がせたい。久々に会う友人に「こんなのがあってね…」って自分の仕事を紹介されたい。それでも「へぇそうなんだ」って私がつくったことを知らせずにいたい。

昔の私が聞いたら目を丸くして驚くような、こんな気持ち。自分でも意外すぎてびっくりしている。この歳になって、自分の成し遂げた仕事への愛情が自己顕示欲を超えたのだな、きっと。リアルな人間関係ではわかり合えない人に対しても、成果物を通じて繋がりたいんだろうな、おそらく。

まだまだこの苗字をどうするべきか悩めているのだけど、自問自答を繰り返した結果、自分の屋号の下では苗字を外し、大文字のアルファベットで生きてみよう、ということになった。できるだけ目立たない名前でやってみる。それで物足りなくなったらきっと”村崎さん”が帰ってくるのだろうけど、自分の感覚がどう反応するか、しばらく様子を見ていこうと思う。

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