わたしが「受け身」でいる人生から抜け出そうと思えたきっかけ。【無能からの脱却】
ほんとうは、ひとりひとりが、主体的に人生を切り開いていくくらいのエネルギーがあればいい。
そうしたら、もっと人生のステータスがアップして、生きることも苦ではなくなるんじゃないだろうかと、最近は思う。
趣味も充実して仕事もできるような有能な人間はごく僅かであり、実際は、仕事に就いても苦になるだけの人のほうが多いので「仕事=辞めたい」となる。
わたしは有能な人間ではないから、仕事が嫌になるひとの気持ちのほうがよく分かる。
仕事ができるようになるまで時間がかかるというのもあるけど、好きでもないことを延々とやり続けることが性に合っていないとも感じるのである。
「仕事を続ければ、どんな職でも好きになる」、とも言う。
けど、それは当たり前だ。
慣れればそりゃあ上手くもなるし、どんどんこなして熟練すれば、誰だって自己効力感と相まって好きにもなる。
でも、わたしが言いたいことはそうではない。
そもそも熟練に至るまでの道のりが厳しいし、そのための気力がないのである。
だから、もっと根本的な生きる気力をもってして、仕事も趣味も生活の雑用もこなすような、そういう楽しさがいつもあるような主体性と気力があれば、と思うのだ。
世の仕事にはどうしても「無駄」がある。それはどこであろうと付き纏ってきて、人のやる気をも削いでしまう。
例えばその「無駄」とは、煩わしいだけの人間関係だとか、決まりごとが多くやけに手順を踏まなければならない事務処理だとか、だ。
そういう意味のないものに限って、余計に気を遣わなければいけないから、やっぱり性に合っていないと感じて、嫌になる。
基本的に転職を繰り返す人とは、このような感じなのかもしれない。
わたしたちは一体、どうやってその気力を維持していけばよいのだろうか。
欲深い人間なら簡単かもしれない。ただ欲のままに生きていればいいだけの話だ。
でも、それが難しい人もいる。
欲を満たすことや娯楽だとか人との交流で気力を維持することは、まずお金がないとできないことだし、人が嫌いな人なんかは2次元の人間に安らぎを求めるけど、それは存在しない架空の人物だ。
わたしはもっとそうだった。
人間関係を煩わしいと感じることのほうが多く、友達は少なかった。しかも有能ではないので、あまり勉強や仕事の楽しさもなく、なにをしても劣等感を抱えているような人間だった。だから気力もやる気もないのだった。
そして、生きる気力がない理由は他にもあった。
それは「受け身」が常態だったことだ。
提示された選択肢の中から選ぶばかりの人生で、与えられたか強制されたかで、むりやりにでも慣れたものばかりに囲まれていた。自分から主体的に新しく知るということが、あまりなかった。そんなんだから、退屈なのは当たり前なのであり。
生きる気力がほぼ無いわたしに、足りないものは何だったか。
それは、正しい知識や知恵だったと思う。
ある意味で、わたしは情報弱者だった。情弱だから、世の中のことも、将来のことも、自分のことも正しく知らずにいた。情弱ゆえに、正しいものも悪いものも見極められなくて、世の中の情勢など微塵も興味が沸かず、考えることすらしなかった。
与えられてきたものを全て鵜呑みにし続けてきた結果、主体性のない情弱ですぐ騙されそうな人間が誕生したのだった。
最近の若い人は、特にそうではないかと思う。わたしがその若い人なのでよく分かる。
それと後もうひとつ、わたしに足りないものがあった。
それは愛だった。
実は、これがいちばん大きかった。
まず、愛する人がいる、というのに憧れた。それは、わたしが人を愛せなかったからだった。
どうしても全てを好きになることができなかった。一部分だけ嫌いで、あとは好き、だから大好き、なんていう器用なことができなくて、心を閉ざして自分を守ることで精いっぱいだった。
でも、愛する幸せがあることは分かっていた。そしてそれが、愛されることよりも実は自分が幸せになれることだとも思っていた。
一度、恋人ができたことがあったけれど、なぜだかしっくりこなくて、別れてしまった。こんなものか、と思ってしまったのだ。
でも、神さまという存在を知ってからはそうではなかった。
わたしはRaptBlogを読み、記事を読み、祈ることを覚え、愛を感じたからこそ、本物の神さまに出会えたと確信した。
愛することの喜びを、わたしはやっと、知ることができたのである。
なぜだか、神さまという存在をよく知らないのに、目にも見えなかったけれど、愛することができたのだった。
でも、「愛」といってもあまりよく分からないかもしれない。
日本人は特に疎いのだと思う。わたしも祈る行為が何なのかすら分からなかった。
しかし、祈りとは神さまとの対話だった。
RAPT | RAPT有料記事104(2016年9月19日)祈りと御言葉と感謝はワンセットだ。
聖書には「愛は神である」とあるように、本物の愛は神のところにある。
神様の存在は、そんなにも遠く離れたものだろうか。
本当は、心のどこかで神様の存在を思うこともあったはずなのに、カルト宗教などのせいで悪魔崇拝が広まってしまって、あまり神様に良いイメージがない人も少なくないのが現実ではないだろうか。
わたしはブログを通して聖書の神さまを知り、祈るようになってから、本物の神さまの愛がどのようなものであるか分かるようになった。
その愛は不思議で、どこにでもあるようで、どこにもないような深い愛だった。
とても近いようで、わたしなどでは近づけないほど遠くにいるような、そういう感じがした。
「わたしは神が愛するような、善良な人間ではない」
そう思ったとしても、そんなことはきっとあなた以上に知っているはずだ。そして、神さまはあなたを救って、愛するに違いない。
その神さまの愛とは、親のような無償の愛だとか、漠然と包んでくれるだけの愛ではなかった。
もっと、近くにいてくれて、支えてくれて、辛いことも一緒に乗り越えてくれるような、そういう愛だった。
ほとんどの人は人生で大成功はできないし、白馬の王子様にも出会えないので、人の成功したのをみて、人が愛し合っているのをみて、それを自分と重ね合わせることでしか満足のいく幸福を得られなかったと思う。わたしもその一人だった。
神さまがいれば、人生はどう変わるか。それは、さっきのような夢物語も夢物語ではなくなるかもしれない。神さまからの愛も、そして人生を切り開いていくだけの気力も手に入れられるからだ。
最初は神様の愛があるだけでも満足するけど、やはり、それ以上に主体的に人生を歩んでいくための自立心も必要になってくる。
でも、決して1人ではなくて、神さまがいてくださると、そう信じて生きることができる。そして、それ以上に心強いことはない。
わたしはまだやっぱり、少しずつ変われてはいるけれど、現状は奴隷状態だといえる。
でも、確実に「受け身」でいる人生ではなくなった。
それは、正しい知識と知恵を得たからだ。
社会の情報もRaptBlogにはあるから、あらゆる情報を取捨選択して、考えることができるようになった。
それは、主体的でいることの第一歩でもある。
なにより愛があったから、生きるための気力も得ることができた。
これは求めた人だけが分かること、なのだと思う。
「求めよ、さらば与えられん」
この聖句が真実であることは、実際に神さまを求めた人しか分からないこと、なのである。
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