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自分のこと、なんだかんだ自分もよくわかってない説

こんばんは、ぱんと申します。

今日の記事は、日記なのか、それとも就活関連なのか、曖昧なところです。
こんな感じの記事は以前にも書いたのでよかったらそちらもどうぞ。

自分のこと、どれだけ知ってる?

就活でよく自己分析とかやりますけど、別に自分のことを一番よく分かってるのが自分だって確証はどこにもないですよね。だから、自己分析をする人は「自己」じゃなくてもいいわけです。例えば友達、親、バイト先の先輩……。自分より自分のことわかってる人は、まわりに案外いるかもしれない。

この記事を書こうと思ったきっかけの話をすると、

私、自分のこと全然わかってないな

…と、思ったんです。
人間には多面性があるから、いろいろな人と接している自分はそれぞれすこしずつ違った別の自分で、まあそれはそれで構わない。なんだけど、私はその「場面ごとに異なる自分」のどれが正解なのかわからなくなる傾向が強い、そう感じました。

こんなことを書くと、「正解とかはなくて結局全部自分でしょ」とか言われる気がするんですが、そうではなくて。自分が外の世界に向けて繕っている、いわば外面とか仮面とか空元気と言われるやつ。それらと、本来の自分との境界がわからなくなっているんだろうなと。

実はこれはあんまり悪いことじゃないのかもしれません。人に向けて頑張ってやっていた振舞いが、ある意味板についてきた(考えずに自然にそれが自分の内面に身についてきた)といえるかもしれないからです。
思えば私は昔、自分がいかに自己中心的だったかに気が付いて、その性格を意識的に変えようと思ったことがあります。最初こそ自分の無意識の心と意識している言動が一致しませんでしたが、「自己中心的で嫌いな自分」が姿を消すまでに、そう時間はかかりませんでした。
今はもう大学生になり、前と比べたら、生物学的にも、周りとの人間関係的にも、自分の性格を変えるのは難しくなっている気がします。でも、そんな中でも、意識して自分の嫌なところを直していけるというのは、実はすごくアドバンテージなのかもしれません。

それでもやっぱり息苦しくなることはあるようです。「ようです」というのが、この話のミソなのですが。
先日、就活の記事に追われていたとき、自分では「忙しいけれど充実している」つもりでした。でもそんなときに友達から、最近心配だけど大丈夫?的な連絡が来て、「あ、私、無理してたんだ」と思って、涙を流してしまったのです。人に言われるまで自分の精神的疲弊に気が付けないなんてそんな愚かなことがあるのかと思いましたが、私はそういうタイプのようです。

幸いその時は、その友達に話を聞いてもらって精神的落ち着きを取り戻すことができました。大抵人に話すと落ち着いたり、解決したりするんですよね。普段自分の中だけで完結させようとする癖があるので、人と話して広い視野を手に入れると前に進めることが多いのかもしれません。

超個人語りでしたが、この辺で終わります。私が詰んだとき、私の友達各位にはお世話になりますが、よろしくお願いします(先に言っておく)。

最後まで読んでいただきありがとうございます。またどうぞ。

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