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幸福と寂寞

 楽しく幸せな一日半だった。
 昨晩十時半頃、メンバーが揃い、炊いておいたご飯と各自コンビニで買った主食で晩御飯を食べ、その後は酒を交えて語り合った。仕事のこと、悩みのこと、下世話なこと等…。笑
 三時ぐらいまで飲み明かして眠り、いつも通り六時二十分に起きた私は、昨晩の食器を片付けて短いコースで散歩し、いつも通りの筋トレ。その後続々と皆が起きてきたので、目玉焼きとウィンナー、レタス、焼き豆腐と残りのご飯で朝食。
 その後は四時間ほどカラオケ。最後の一時間は「カオス」に尽きる状況で腹筋がとっても鍛えられたね。最高だよ皆。
 帰り、Mを送る手筈だったが寝不足が祟り、危なっかしい運転になりかけていた(というかなっていた)ので少し仮眠を挟み、お勧めのラーメン屋で夕食を食べて解散し、さらに仮眠して高速使って買い物して帰宅、といった流れだった。
 

某鶏白湯のお店。
大学時代からよく行ってたなぁ。
うめぇんだ、これがまた。

 帰宅後は推しのタペストリーが届いたので設置し、(今度気色の悪い記事で紹介しようと思う←)ルーティーンの筋トレをいつもより少し負荷を増やしてやってみた。まだまだ現役時代には程遠いね(遠い目)。
 食器の山を片付けながら、本来一人だったらこんなに食器を一気に洗うことなんて滅多にないな、とふと思った。
 正直に言えば勿論面倒臭いが、同時に幸せなのかもな、とも思えた。こんなに一度に食器が溜まるということは、それだけ我が家に客が来てくれたということ。そう考えると満更でもない。
 面倒臭いことは嫌いなので、基本先に片付けるか、必要ない面倒には基本我関せずのスタンスでいる。食器洗いに関しては勿論前者。あとはこの記事をiQOS吸いながらのんびり書くだけ。

 今の気持ちは、九割の幸せと一割の寂しさ。これは昔からの俺の習性みたいなものだ。大きなイベント等、「めっちゃ楽しみや!」と思っていたことが終わった後に残る満足感と、「終わっちゃったなぁ」っていう哀愁のようなもの。もう慣れっこだが、やはり寂しいね。
 殆どの皆は明日からまた平日で、仕事。俺は少なくとも七月いっぱいまでは毎日予定を作らないと何もない。まぁやらなきゃいけないこともあるし、ルーティーンの散歩と筋トレもあるし、全く何もないということはないのだが、SNSをほぼ全て消去した俺のiPhoneは基本薬と筋トレを知らせるリマインダーしか鳴らない。
 でも、例えば仕事を終えた友人から「煙草吸いに寄っていい?」とか、「今日飯食わせてよ」なんて言われると、とっても嬉しくなる。予定ができるのだから。働いている人からしたら贅沢な悩みだろうが、屋根の下一人で生活していると時折孤独を感じるのは事実である。その道を選んだのは自分なのだが、ふとしたことであの三年と九ヶ月を思い出すと、誰かが傍にいてくれることのありがたみを感じる。今のところ新しい将来に向けたパートナーは求めていないし、求め始める頃には手遅れだろうけど。笑
 親しい人と食べるご飯は一人で食べるより数倍美味しい。料理が趣味で本当に良かったと思う。そこに更に「美味い!」と言われた時には、心が跳ね回るような喜びで満たされる。
 さて、八月から徐々に仕事に復帰する算段が本格的になってきた。今の整理された家を保てるだろうか。少し心配だけど、そんな何十日も先のことより、目の前のことを考えていこう。今週は何をしようか。貰った本を読んでみようか。買った新刊の漫画を一巻から読み返してみようか。貯金していきたいので、極力お金は使いたくないので、お金を使わずに楽しめる日々を考えていこう。
 いつか俺のことを正面から想ってくれる人と出会った時に、余裕を持って接していくためには、やはり懐にある武器は多い方がいい。今は我慢と整理の時。そんな人が現れるとは思っちゃいないけれど、何かあった時、例えば愛車が故障して修理が必要になった時、どうしても必要になる。身の丈に合った生活をして、我が家に来てくれた人達が残してくれた投げ銭を恩返しに使えるように、自分の為に使うお金は自分で貯める。社会人四年目にして、ようやく学んだことだ。気付くには遅すぎたが、今から頑張っていけば、きっといつか「あの時頑張って良かった」と思える日が来るだろう。その日を迎えた時、自分に襲い掛かる不安を撃退できる強力な武器となってくれると信じて頑張ろう。
 表題の写真は、散歩の時に見かけた紫陽花。次の記事の表題は、きっと向日葵。梅雨はもう終わったのかな?連日太陽を浴びられる朝が続いてくれて助かっている。洗濯物の湿気も、心の中のじめじめした感情も、カラっと乾かしてくれる。二十一の歳に病んだ時は、日光が大嫌いだった。でも今は、恩師と呼べる医者の先生や新居のお陰もあり、日光、特に朝日を浴びることが大好きになった。これから暑くなる。如何に電気代を抑えるか考えるのも良さそうだ。銭ゲバのドケチで結構。「利己的」に生きるために、削れる部分はとことん削って、使うべき時に躊躇なく使えるようになれたらまた自分のことを少し好きになれるかもしれない。
 六月二十四日、自分のことが好きと思える感情が零から一に増えた。元々あるものを増やすことは難しくないが、ゼロから生み出すのはとても難しいとどこで聞いたんだか見たんだか覚えてないが、脳裏に残っていた言葉だった。一歩踏み出せたのなら、どんなにゆっくりでも二歩目、三歩目が踏み出せると信じて、明日も生きていこう。

 では、今日の一曲。

苦しかろうが明日をまた生きる強さ手に入れて
始まりの意味と終わりの意味を探し
新たな闇の中歩いてく

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