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群衆哀歌 06

Before…

【十一】

 あまりに驚いて缶チューハイを落とし、点きたての煙草は口元を離れて宙を舞い、右の手の甲に無事火種を消さずに着地した。無事、と言っていいものかは分からないが。
 叫び声こそ上げなかったが、約七百度の塊に手の甲を焼かれ、煙草を素早く左手で取った。イヤホンを外し、改めてその女を見た。コートを着ているが、その下は明らかに部屋着で寒そうだ。

「これ使ってるとさ、肝心な時に点かないことあるよね。」
 その女は、仄かな温かさを感じさせる笑顔で話し掛けてきた。
「火、ありがとうございます。すみません、俺テンパっちゃって。寛いでる時にお騒がせしちゃって……」
 酔いはほぼ覚めてしまった。誰とも会ったこと無い場所で、初対面の女に話し掛けられている。しかも、無言で火を頂いた恩もある。落ち着かない俺を見て、その女はさらに取り乱す言葉を返してきた。
「いいんだよ、今日後ろで騒がしくしちゃったでしょ。そのお返しだと思って、青髪君。」
 ますます怖い。その女は黒のショートヘアに金髪と銀髪のメッシュが入っていて、寝間着にコート。基本一人で過ごしていることもあるが、大学にもバイト先にもこんな知り合いはいない。
「いやいやいや、いつどこでだよ!?俺面識ないでしょ?初対面だべ!?」
 慌てふためく俺を掌で転がすように、その女は続ける。
「今日の最後の講義の時に後ろにいたじゃん。あ、でもあの時は少し長めの髪で行ったから分かんないか。」
 最後の講義、後ろにいた奴ら、騒がしかった奴…。頭の中でやっとピースが組み上がった。
「え、あんたアイカさん?」
 酒を飲みながら、女は言葉を繋げる。
「そうだよぉ。あれウィッグなんだよね、髪隠すための。これでも君より一つ年上だよぉ。」
 こいつ酔っ払ってんのか。山本達と一緒にいたんなら、タメ年じゃねぇのか。何考えてんだ。
「いやいや、あの講義受けてんならタメ年のはずだろ。飲み過ぎだぜ、あんた。」
「まだ二本目だもん。」
 何だこの女。俺まであの取り巻きの一部にするつもりかよ。
「君有名人って聞いたよ、私は知らなかったけど。隣に座られた時、髪の毛で今日前にいたコだなって分かったけどねぇ。風変わりな風貌に極悪人って色んな男の子が言ってる。山本君はそんな奴じゃないって言ってたけど、実際どうなの?」
「悪いコトなんちゃしてねーよ。仕送り無しでバイトしてなんとかやり繰りしてんだぜ。山本にはまた礼言っとかないとな。」
「君、律儀だね。私、山浜哀勝。哀れみに勝つって書いてアイカっていうんだよ。こう見えて冬前まで国立行ってたんだよ、一浪してまで。それが、なーんでこんなとこで煙草吸ってんだろうねぇ。落ちぶれたもんだよねぇ。ほんとウケるよねぇ。何が哀れみに勝つだよって。負けっぱなしだよ。」
 あはは、と笑いながらアイカは悲しい話をする。
「んじゃ本当に一個上なんだね。他人の悲しい話は嫌いだよ。ここは俺の捌け口なんだ。このガラ入れは俺の煙草と鬱憤捨てる為にあるんだよ。」
「その吸殻と鬱憤を時々綺麗にしてあげてるんだけどねぇ。」

 そう言えば、誰も寄り付かない廃墟の灰皿が空になってることがあった。変だなとは思っていたが、俺と同じ吸殻しか無いし、そこまで気に留めていなかった。このアイカとかいう女が綺麗にしてくれてたのか。
「んじゃ、お礼に一本ちょーだい。」
「いいですよ、俺もたまにここ使ってるし、綺麗にしてくれてるお礼ということでどうぞ。」
「そんな突然畏まらなくていいって。学年一緒だしさぁ。ってか私と同じの吸ってんじゃん。渋いねぇ。」
「今日渋いって言われたの二回目…。」
「おぉ、こんな奇天烈男が一日に二度も声を掛けられるとは。私これ被ったの初めてだよ。今日はきっと人生のターニングポイントだよぉ。お姉さんが言うんだから間違いない。」
「こんの酔っ払いが……。でも俺がこうなってから同じ学校の奴に一日二回話し掛けられたのは初めてだわ。何かの分岐点かもな。」
 二人して煙草を吐き、酒を飲む。アイカは慣れてるだろうが、俺は基本一人だから話し慣れていない。でも、寒いし他人と話してるのに、不思議と足は震えない。
「青髪君、名前は?」
「染谷喜一。喜びは一つって書いてキイチだ。」
「キイチ君。覚えた。」
「明日には忘れてんじゃねえの?」
「かーもねぇ。もうどーだっていいんだ。転学する前のこと忘れらんなくてさぁ。このまま凍え死んでもなーんにも思わない。」
「男侍らせてさぞかし楽しいんだろうなって思ってたら死にてぇのかよ、羨ましい悩みだな。」

「キイチ君には、忘れたい過去ってある?」
 一瞬間を開け、突然そう言ったアイカの表情は虚無だった。明滅する電灯のせいで余計に怖く見える。でも、その表情は見たことがある。何度か、色々なところにある、鏡の中で。
「あるよ、一つ。これだけは絶対消え去ってほしいもんがね。」
「そっか、奇遇だね。私もなんだ。それに憑りつかれて、何とか振り払って楽になりたいんだけど、ずっと着いてくるの。もう疲れちゃった。」
「軽々しく言うわけじゃないけどさ、すっげぇ分かるよ。何度吐いたか分からねぇ。吐いても吐いてもすっきりしねぇ。ずっとこびりついてる感じ。」

 その時、アイカの煙草の先端に大きめの雨露が落ちて火種を消した。アイカは溜息を一つ吐き、「帰るね、いつか続き話せるといーなぁ、あはは。」と言って千鳥足で家路を歩み出した。
 残った酒をストローを捨てて飲み干し、空き缶入れに放り投げ、気づけば肩を貸していた。何故そうしたか説明を求められても困る。身体が反射的に飛び出したとしか説明できないから。
「何してんの?この後うち上がる?狭くて汚いよぉ。こんな身体好きにしていーからねぇ、きゃはは。」
「うるせぇ、あんたの身体目的じゃねぇよ。俺が汚したとこ綺麗にしてくれてる恩人放っておけるか。家どこだ、送ってってやる。その辺で野垂れ死にされた方が寝起きが悪くなんだろ。いつか続き聞かせてくれんだろ。俺もアンタと色々話してみてぇって思ったんだよ。」

 ここから先は、よく覚えていない。数分歩いてアイカを送り届けたところまでは覚えている。缶チューハイを一気に煽ったせいで悪酔いしてしまったのだろう。そこから先の記憶はほぼ無い。何なら廃墟の出来事がそもそも夢だったんじゃないかとさえ思う。

 目が覚めた時、俺は春が寝ているはずの布団に横たわっていて、春が俺の顔を覗き込んでいた。

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