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ほろ酔いゲシュタルト 00

【始】

ここは、どこだ?

 目が覚めた時、周りには誰もおらず、不気味に点々とか細い灯りが連なっていて、灯りの最果てには不気味に黒く流れる川。川のほとりには、石で出来た小さな塔が幾つもある。
 思い出そうにも記憶が全く無い。記憶が無いというよりも、記憶の辿り方を忘れてしまったような感覚だ。俺は、ここは、何が…?

「かかかッ、己が何者かも分からぬか。」
「そんな様で此の場所に来るとは。」
「呆れる程幸せな魂じゃのォ。」

 右の脚に何かが絡みつき、声がする。顔を下げると、薄灯りに照らされたのは影のように黒い、黒い蛇だった。

「ほれ、頭なぞ下げるでない。」
「思い出してしまうぞォ?」

 べちゃり。蛇の真横・俺の足元に何かが落ちた。それは何とも生々しく生臭い塊で、皺だらけの柔らかそうなものだった。
 びたり、びたたり。その不気味な塊に続いて流れ落ちてきたものは、その蛇の体色に限りなく近い、真っ赤な液体。蛇は快感を極めた様子でその液体を全身に浴び、恍惚の表情で俺を見ている。

「若僧、そこ行ッてみィ。水の流れだ。」
「きッと己に何が起きたか理解出来る筈じゃァ。」

 重たい右足を引き摺り、顔にどろりと何かが垂れる。川の水面に映ったのは、果たして俺と言っていいものだろうか。

え、あ、ああ?あああああああああああああああ!!!
痛、痛い痛い痛い!!!う゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!

 水面に映る「俺」は頭がばっくりと割れていて、裂け目から夥しい量の血が滝のように落ち続ける。激痛に悶えて振り向くと、先程落ちた塊は俺の脳の片割れだったものだ。再び川面を見る。割れた頭には脳が半分しかなく、俺の落とした血の湖で黒蛇は優雅に泳いでいる。

「言ッたろう、思い出せたようじャのォ若僧?」
「それとも片ッぽの脳髄では難しかかァ?」

 片方しか無い脳味噌が、「痛み」に特化した信号を流し続けて何も考えられない。出来ることはただただ激痛に悶えて叫び、苦しむのみ。

「ちょっと、うるさい。邪魔なんだけど。」

 後ろから突き飛ばされ、紅蓮の湖に顔面から落ちた。か細い足首だけが見えた。その足首は川へと歩を進めて消えた。

「仕方の無い小僧じャ。」
「ほゥれ、少しは楽になッたろォ?」

 蛇が頭に巻きついて俺の眼球を舐めた。痺れるような別の痛みが一瞬走ると、激痛も絶叫も止まった。そして考える隙が生まれた。そうだ、俺は…。

「我輩が直々に説明してやろう、若僧。貴様の脳と、そこから垂れ流された浴びる程の血の礼じャァ。貴様は先刻、酒を呷ッた拍子に馬鹿な男にブチ当てられて階段から落ちたのじャ。綺麗に頭を十三回打ッてなァ。」

「若僧、貴様は死んだのじャよ。」

 そうだ、俺は死んだ。コンビニで買った缶ビールを飲んだ。階段を上り終えると同時に、空を見上げるようにぐっと呷った。その瞬間、泥酔して騒ぎ立てた中年のオヤジにぶつかって上り切った階段から落ちた。記憶を辿るのはそこまでが限界だった。徐々に、徐々にあの痛みが戻ってくる。

「若僧、これ以上思い出すのは止めェ!我輩でも抑えきれぬぞ!いッそ川の向こうへ送ッてやろォか?その方が楽じゃろォ?」
「蛇、俺は向こうに行ったら楽になれるのか!?生きるよりずっと苦しい!川を渡れば、向こうへ行けば俺は楽になれるのか!?」
 自分の血でべたべたになりながら蛇へ問う。蛇の表情なぞ見る機会は無かったが、頭に巻きつく蛇からは何か虚しさのようなものが伝わってくる。
「楽になれる、じャろうかなァ。然し若僧、貴様は一つ嘘を言ッたな。生きるより苦しいとは本心か、あァ?」

嘘?

「かかかッ、伝わるぞ解るぞ若僧!こうも愉快な心地は久方振りじゃわィ!教えてやろう思い出させてやろォ!貴様はいッそ死んだら楽になると思ッて酒を買うたのじャ!生き地獄だと思いながらなァ。人生に失望して縋ッた酒で命を落とすとは!愉快愉快!」

そうだ、あれは嘘になる。

 社会に出て、仲間と疎遠になり、決まった時間に決まった場所へ行って決まったことをして、決まった時間に寝て、決まった時間に起きての毎日。さながら絡繰人形。死んだ方がマシなのではないかと思った六月十三日、決まった行動から外れ、地下鉄の駅を出たところにあるコンビニでビールを一本買った。薄暗い空を見上げるように、生きる意味を問うように空へ向かって酒を飲んだんだ。

「かッかかか!理解したか!こんな目に遭ッても尚死んだ方が良かと思うのかァ若僧!?愉快じャ、我輩は愉快で仕方が無いィ!」
「蛇、どうしてお前はそんなに楽しそうなんだ?俺が死んだことがそんなに面白いのか?」
「あァ、愉快で堪らぬ。何せブッ壊れた亡骸なぞ御無沙汰じャ!脳髄を垂れ流してくれた御陰で我輩が死んだ時を思い出させてくれたわィ!」
「蛇、お前は何故死んだんだ?」
「腐れ人間に八ツ裂きにされてのォ。あの人間の餓鬼共はそれはそれは楽しそうじャったわィ!あァ憎い、憎悪と怨嗟に支配された頭が此処に残されたのじャよォ!」
「蛇、どうしてそんな酷いことをされた?」
「どうして?何故!?貴様の残ッた脳味噌でそんな下らんことを訊くとは!あッはァ愉快、愉悦!そんな理由なぞ我輩が知る訳が無か!悪戯、御遊びじャよ若僧!悪き遊戯。これ以上に的を射た言葉があるかィな!それだけで我輩は殺された!餓者の旦那に無惨にも見捨てられたのじャ!身体も無いのにどうやッて這う?八の一しか無い身体で、どうやッて楽になる!?その面白い脳で教えてくれェ若僧!」

 あぁ、悲しい。哀しい。俺が死んだのは気まぐれの偶然だった。だがこの蛇は子供のきまぐれで殺された。頭を真っ二つよりもっと惨い。全身を八つに裂かれ、何も出来ぬまま死者を見送っているのか。
「ほほォ、我輩の思念を読むか。ならば若僧ォ、我輩と一つ取引と行かぬかァ、どうじャ?」
「…取引?」
「そうじャ。」

「貴様はあと五十二年生きられた。」
「我輩が手間賃としてその二年に相当する力を得る。」
「引換に若僧ォ、貴様に五十年の時を贈ろう。」

「その代わり境界を彷徨う彼らを助けてあげて。」

「彷徨える奴等を導け若僧。」
「今迄何一つ熱を帯びなかッた若僧よ。」
「血に乱れて死ぬのなら、その赤を。」
「燃やしてからでも遅くはなかろォ?」

 死ぬまで、生きる理由なんて考えたことも無かった。全てが当たり前で、退屈な日々が繰り返されるのは必然だと。だが、死んでから分かった。死んだところで、待っているのは苦しみと痛み、そして虚無。ならば。

あぁ、分かった。死んでしまうまで生きてみよう。

Start…


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