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境界の在り方、最果タヒ。

 彼女の詩集を読んで、何度かnoteを書こうとしたことがあるが、毎度失敗している。終着点が見当たらなくなって、綴るまでもないと消す。
 わたしは彼女との距離がうまく取れない。こんなふうにことばを操れたらいいと思うのかもしれないし、新しいことに度々チャレンジしているようにみえることを羨んでいるのかもしれない。どう考えても他人なのに、他人に思えないのだ。(彼女は誰に対しても適切な距離をとっているので、紛れもなく他人なのだが)

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 時間は区切れるものではなく、0時になったら次の日だというのもよくわからない。23:59と0:00の1分間と、0:00から0:01までの1分間とは何が違うの。
 いつだかに訪れた池袋駅から少し離れた閑かな公園はたしかに時が止まっていたように思う。私と友人は時が止まっていたが、どうやら世間は動いていたようで、物語の中に閉じ込められたみたいだと思った。
 時間の区切りが曖昧なのは夜だけでなく、午前中、もっと丁寧に言えば10時半とか11時とか。
「おはようございます」に対して「こんにちは」と返す意地の悪い教師の顔が今でも目に浮かぶ。なんだっていいじゃないか、挨拶してるんだから。

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 小説とエッセイと詩との違いなんて、大体の定義はわかっても、自分の中で明確な違いはあるだろうか。どれを読んでも自分のことばではあるけれど、なんとなくの分類しかない。ぜんぶ私のことばではだめなのかしら、そんなふうに思う。

 私は東京で行われた、最果タヒ展を訪れた。
 久しぶりの渋谷は駅の形すらも変わっていて、よくライブハウスに向かう前にどきどきしながらメイクを直していた薄暗い御手洗はなくなっていた。好きなアーティストが表立った活動をしなくなって二年とちょっとが経とうとしている。
 変わってしまった街並み。ちょうどそのライブハウスに向かう道のりの左手に、新しくなったパルコは立っていた。

 平日にもかかわらず、賑わう最果タヒ展。此処にいる人の中でどれだけの人間が、ほかの詩の展示に足を運んだことがあるだろうか。体を持っている詩に対して、違和感を覚えないのか、ことばに侵食される恐怖とか、そういうのはないの? こんなに皆に受け入れられるものなの? とわたしはモビールが下がる展示室の入り口付近で固まっていた。

 展示が開催された12月頃、この写真をラインのホーム画面にしていた。
 これを見た父が電話を掛けたときに、
「憂ちゃんが書いたの? これ」
 と能天気な声で言った。顔から火が出そうな心地だ。
 私はたしかに最果氏の影響を受けているだろうが、彼女のことばを真似たつもりも、ましてや彼女のことばになりかわったつもりもなかった。しかし、このことばだけはどうしても他人に思えなかった。それを父は理解していたのだろう。

わたしは、本当は、
女の子でも男の子でもなくて、

いい子なんじゃないのかなあ、
そう思うと息が苦しくて、

 まあそれにしても不快である。自分のことばとはなんだろう、と考えるとともに、詩でありながらほかの者とは異なる何か、アイデンティティの確立について見つめ直さざるを得なくなった。

 だからわたしはこんなことばを添えた。

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 他人の言葉を借りてまで文字を連ね、物語った気になるわたしの無力さ、愚かしさよ。
 其処にほんとうの意味があるのかさえ知らぬというのに。

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 しかし、これは切り取り方なのだという。
 切り取ったわたしの意思がそこには反映されていて、意図していなかったにしろ、残りを棄てたことになる。だからこれは彼女、最果タヒのことばであり、同時に私のことばの代弁でもあるのだ。

 彼女は境界を未来の自分に委ねたのだ。わたしは今日もまた、彼女にひとつ助けられてしまった。

 世では境界というものが至極大切らしい。物語を作るのにも、異郷を跨ぐことがストーリーを創るのに大いに役立つのだから、たしかに必要なのかもしれない。
 それでもわたしに境界は要らない。何処までも滲ませて、溶け合わせてしまいたいと思う。

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