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ヴィパッサナー瞑想合宿終盤

9日目になり、4時半起床にも慣れて意気揚々と朝の瞑想をする。
前日の気づきにより気持ちも安定していて、あと数日で家に帰れる!帰ったら、あれしたい、これしたい、と考えていた。

これまでの経験で、お昼に食べ過ぎると午後の瞑想で気持ちが安定しないなと感じていたので、お昼も控えめに済ませて午後の瞑想に挑む。
順調だと感じていたのも束の間、ひどい感情の波に飲まれてまた瞑想ホールを飛び出した。
この「ひどい感情の波」とは、大体が私の破壊的な妄想力だった。私を過去に傷つけた人に対して、暴力的で破壊的な幻想を作り出し、頭の中で考えられないような暴言を発し、そんな自分に対しひどい嫌悪感を抱いて自己否定、自己卑下をする、と言うパターンだった。どうして私はこんなに心の汚れた人間なんだ!とショックを受け、悲しくて悲しくて立ち直れなくなる。

この時点で私は本気で二重人格なんだと信じた。これは精神病院に入ってなんとかしてもらわないと、大事な人たちを傷つけることになる。私は危険な人間だ。犯罪者の一歩手前だ。
ここまでくると、本当の自分とはなんなのか分からなくなり、現実の世界へ戻ることが不可能と感じていた。あと数日で私はどうなるのだろう?
恐れと不安に襲われつつも、なんとか瞑想を続けた。ちなみに、瞑想中は恐れや不安などという気持ちに反応しないようにしなければならない。そういう反応が起こっても常に「観察する」ことになっている。こうやってマインドをコントロールする訓練をしているわけなのだが、大抵は何事もなく瞑想できるのに、午後になるとこの感情の波に襲われるのか、理解不能だった。

すっきりしない気持ちを抱えて夜の講話。その日、ゴエンカ氏はいくつかのたとえ話をしてくれた。

ある絵描きが、とても美しい人の絵を描いた。絵描きはその絵の人物にえらく惚れ込んだ。自分で描いた絵にも関わらず、賞賛し、その絵の人物なしでは生きていけないほどだとまで言い出した。
その絵描きは次に、とても醜くて恐ろしい人物を絵に描いた。とても上手く描写されていたため、絵描きはとてつもない恐怖に襲われた。恐ろしくて恐ろしくて、眠ることもできなくなったとまで言い出した。
なんと愚かなことだろう。
自分で描いた絵に対してひどい執着をし、感情を生み出している。

人はこうして、自分で作り上げたイメージに執着し、そのイメージを称賛されると浮かれて喜び、傷つけられると嫌悪する。
渇望は執着を生み出す。例えば、「賞賛されたい」と渇望すると、それに執着する。それを手に入れられなければ嫌悪し、手に入れられると喜びさらに渇望するようになる。

大体こんな話だったと思う。話の締めくくりは「エゴで生きている人間は執着や渇望を生み出し、苦悩を生み出す。」

ここで私はこの合宿にて気づくべきことにやっと気づいた。
合宿中、毎日毎日嫌悪に襲われ、なぜ苦しみが減らないのか、なぜ自分を傷つけた人たちを許せないのか。
それはすべて「自分のエゴ」だったことに気づいた。
自分にエゴがあるのはもちろん承知のことだった。でも、そのエゴがどれだけ自分に苦しみを生み、間違った決断を繰り返し、苦しみを自ら生み続けることを知らず知らずのうちに続けていたことに、やっと気づいた。
エゴが、自分の苦しみを他人のせいにし、エゴが、自分の苦しみを解放するのは自分以外のモノであるべき(この場合、瞑想すれば苦しみから解放されるという誤解)だと信じていたから、いつまで経っても苦しいままだった。

これに気づいた瞬間、すべての思考が止まった。そして身体中の細胞のバイブレーションがすべて一定になったような感覚になった。

ゴエンカ氏は何度も言った。知識は実践して体験して、初めて会得したと言える、と。そして、智慧(wisdom)は人それぞれ違い、この合宿で得られる智慧は自分の中からでしか得られない、と。

その夜、初めて私の心に平静が訪れた。辛い記憶や感情に反応しない安定した心。今まで暴走していたエゴが、初めて沈黙した。

十日目の朝、心の平静はまだあった。その日は朝の瞑想の後、新たな瞑想、メッタを教えていただいた。メッタは、愛と慈愛の瞑想で、これからはヴィパッサナー瞑想の後にこのメッタ瞑想を行うように指示された。
ゴエンカ氏がメッタ瞑想を初めて読み上げた時、愛と慈愛の気持ちで心がいっぱいになり、涙が止まらなかった。

生きとし生けるものすべてが、幸せになりますように。
生きとし生きるものすべてに、平穏が訪れますように。
生きとし生けるものすべてが、苦悩から解放されますように。

無の境地に達したものは、愛と慈愛の心で満たされる。
ブッダは神ではない。彼は一人の人間だった。瞑想を通し、悟りを開き、苦悩の解放をする術を会得し、苦しむ人たちのために瞑想を教え、ブッダとなった。彼は無償で奉仕した。奉仕することが無の境地に達する条件の一つであると悟ったからだ。奉仕することが、エゴの芽を育てないことだと、悟ったからだ。
彼の教えはただ一つ。Dhamma(自然の法則)だ。ヴィパッサナー瞑想はDhammaを理解し、実践し、人生の一部として取り入れる方法だ。
Dhammaを実践するには10の性質(parami)がある。

  1. nekkhamma - 放棄・自制

  2. sila - 戒律

  3. viriya -努力

  4. panna - 智慧

  5. khanti - 忍耐力

  6. sacca - 真理

  7. adhitthana - 強い決意

  8. metta - 純粋さ、無条件な愛

  9. upekka - 平静さ

  10. dana - 奉仕

合宿は、この性質に基づいて厳密に設計されている。参加してからこの厳密さを実感し、この環境で、厳しいルールの中でなければ、すべて腑に落ちることは不可能だと思った。


メッタ瞑想が終わり、瞑想ホールを出ると、聖なる沈黙は終わりましたと告げられ、皆が10日ぶりに話をしている。
今まで一緒に過ごしてきたけれど、実際はどんな人なのか分からない人たちと初めて話をして、今まで見た感じだけで勝手に作り上げていたその人へのイメージと話した後のイメージに結構なギャップがあることに気づき、自分のマインドとは幻想、妄想であることがほとんどなのだなと、更なる気づきがあった。

皆それぞれ本当に辛い思いをしていて、それぞれの智慧を得て、愛と慈悲に包まれていた。私たちはある意味戦友になった。辛い戦いを、沈黙の中一緒に切り抜けた。

11日の朝、掃除を済ませて9時ごろにはほとんどの瞑想者が帰路に帰った。
私はおよそ12日ぶりに会う家族に会うのが待ち遠しかった。
家族が合宿センターに入ってきたのが見えて、娘が私に気づき、走って私に抱きついてきた。ちょうど朝日が差し込んできたデッキで私は胸に娘を抱いて、涙が溢れた。その上から私と娘を抱きしめた息子の目は赤くなっていた。

私は、この子たちの母親であることに、心から感謝しています。

そうやって感じたのは本当に久しぶりだった。
それまで、どれだけ私のエゴが感謝の気持ちを曇らせていたのか痛感した。
もうあの自分には2度と戻らない。
そう心に決めて帰路についた。


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