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イマイチ行動できないのは、固定観念の「禁止令」にあるのかも

ごめんください。久しぶりにTA(交流分析)モードのコスギです。

ストレングスファインダー®(クリフトンストレングス®)と交流分析の親和性は高いだろうとは思っていたのですが、セルフコーチングで「固定観念」を扱うにあたって、ここはもう「禁止令」を紹介するときが来たなと思いましてね。

目標に向けて行動するためのセルフコーチングを無料でできるプログラムを公開したので、気になった方はこちらをご確認ください。

このセルフコーチングは、ロバート・キーガンさんが提唱した「免疫マップ」や、アルバート・エリスさんが提唱した「ABC理論」に基づいた流れになっているので、知っている方は知っていると思います。そして、知っているのとやるのとではまた違うということもね……

今回ご紹介する「禁止令」は、行動を阻害してしまう固定観念を理解しやすい考え方ですが、割と内面をえぐられるネタでもあります。それでも、ここまでがんばってきた証でもあるので、一歩引いて眺めてみてください。

禁止令とは

過去に自分に対して言われた否定的な言葉や態度を、無意識に自分にとっての制限として認識し、その制限に従って生きてしまうことが「禁止令」です。特に幼い頃、信頼していた養育者(親など)から受けた非言語の態度が影響しやすいです。

禁止令を具体的にすると無数にあり、ジョン・マクニール博士は25種類に分けていますが、ここでは最初にメリー・M・グールディング夫妻が提唱した12のカテゴリでご紹介します。

ご自身や見知った相手が「◯◯されると固まってしまう」「特定の行動に固執してしまう」「同じ悩みを繰り返してしまう」ということがあれば、それは何らかの禁止令を持っている可能性が高いです。

ただし、禁止令は本人の生存戦略に必要だった固定観念なので、決して悪いだけのものではありません。とはいえ、大人になった今、不要と判断したら手放すことで軽くなれるかもしれません。

感じるな(Don't feel)

「そんなことで泣くなんてみっともない」「あなたが怒ると私がツライ」などの態度によって感情を表現することを咎められた(と強烈に受け取った)ことで、自分の感情に目を向けなくなった禁止令です。

そもそも自分の感情をスルーしているため、他者の気持ちにもピンときません。他者に配慮しろと言われても困惑してしまう方や、喜怒哀楽が表情に出ない方、普段は静かなのに突然キレる(激しい怒りを表す)ような方は、この「感じるな」を持っているかもしれません。感情がないわけではなく、感情を表現するために思考優位になっていることが多いようです。

考えるな(Don't think)

「私に従いなさい」「あなたの考えはおかしい」などの態度によって自分の考えを表現することを咎められた(と強烈に受け取った)ことで、自らの思考を放棄する傾向の強い禁止令です。

自分が考えることに無力感を覚えていたり、意見に対して否定されることを恐れているため、自分の意見を伝えることが困難です。他者のさまざまな主張に流されたり、言われたことはできるけれど自分で考えて行動できなかったり、意見を求められると固まってしまうような方は、この「考えるな」を持っているかもしれません。

健康であるな/正気であるな(Don't be well/sane)

普段は忙しい相手が、自分が病気になると心配してくれたり、突拍子もない事を言うとかまってもらえたりした(と強烈に受け取った)ことで、ことあるごとに体調不良を訴えるようになった禁止令です。

病状を大げさに報告したり、睡眠不足や暴飲暴食自慢をしたり、自暴自棄になったりして周囲の気を引こうとするような方は「健康であるな/正気であるな」を持っているかもしれません。他者の反応に依存している禁止令のため、得られる反応が「またか」と呆れて心配してもらず、放置されるようになると、更にエスカレートして日常生活に支障が出ることもあります。

近づくな/信じるな(Don't be close/trust)

「忙しいんだから後にして」「後で話を聞くから」などと距離を置かれ、その後のコミュニケーションやスキンシップも得られなかった(と強烈に受け取った)ことで、他者に関心を持たなくなった禁止令です。

他者を信頼できず、自己開示もできず、過度に裏切りを恐れてどのようにして他者と関わったら良いのかがわからないため、関係構築を忌避する傾向が強いです。困っていることを相談しないまま自分で抱え込んでしまう方、相談の場を設けてもらっても固まってしまう方、他者とのつきあいが表面的な方などは、この「近づくな/信じるな」を持っているかもしれません。

属するな(Don't belong)

「あんな子たちと一緒にいちゃダメ」とコミュニティを制限されたり、コミュニティ内で無視されたりしたことで、社会的な集団に入ってはならないと(強烈に受け取ったことで)、自ら孤独を選ぶようになった禁止令です。

集団の空気感がわからないため、単独行動をせざるを得なくなるものの、孤独感と不安感は強く、自分を認めてほしい・誰かの元で安心したいと感じる傾向があります。協調性がなかったり、自ら関係を断ち切ってしまったり、頻繁に転職を繰り返したりする方は、この「属するな」を持っているかもしれません。

なお、1つ前の「近づくな/信じるな」は他者への関心を自分に禁止したことで、助言を受けたり評価されたりすることそのものが苦手です。一方「属するな」は集団行動を自分に禁止したことで孤独感は強いものの、他者からの評価を気にする違いがあります。

重要であるな(Don't be important)

「子どもは黙ってなさい」「お前には聞いていない」などの態度や、がんばりを認めてもらえなかった、からかわれたことによって自分の存在を軽視された(と強烈に受け取った)ことで、強い無力感を抱えている禁止令です。

期待されることへの忌避感が強いため、地味でうつむき気味で声も小さく、自信のなさがあふれています。とにかく目立たないようにしたり、他者からの期待を過剰に感じたり、「ムリです」が口癖だったりする場合、この「重要であるな」を持っているかもしれません。

(何も)するな(Don't do anything)

「あっちに行っちゃダメ」「お前は手を出すな」「そんなことはしなくていい」など、自分の行動が養育者の不安を煽ることを怖れた(と強烈に受け取った)ことで、自分からは行動しなくなった禁止令です。

不安が強く過干渉な養育者に育てられたことで、従順だけれども積極性がなく、挑戦に対する恐怖が人一倍強い傾向があります。ひとりでは何をすればよいのかわからず困惑することが多いため、指示待ちタイプの方や言われたことだけをこなすような方は、この「(何も)するな」を持っているかもしれません。

禁止令の2つめに挙げた「考えるな」は自分の思考を制限するものですが、行動まで制限するものではありません。しかし「(何も)するな」は、思考以上に自分の行動を自ら制限している違いがあります。

成功するな(Don't make it in your life)

「お前に期待した私が馬鹿だった」とひどく落胆されたり、「ほらみろ、そのやり方じゃうまくいくわけがない」と非難されたり、失敗したときにだけ励まされたりしたことで、自分には成功する資格がないと(強烈に受け取ったことで)、自滅してしまう禁止令です。

途中まで取り組んでいても、目指していたはずのゴールが見えてくると「もうこのくらいでいい」と妥協します。本番直前で体調を崩したり、勝負で手を抜いたり、物事に本気で取り組まない方は、この「成功するな」を持っているかもしれません。自分が幸せを感じることを避けることもあります。

成長するな(Don't grow up)

「かわいそうに」「私がやってあげる」と溺愛され、年齢を重ねても子どものようなふるまいをし、甘やかされることが自分の存在価値であると(強烈に受け取ったことで)、周囲に依存する禁止令です。

依存心が強く過保護な養育者に育てられたことから、どのようにすればまわりがチヤホヤしてくれるかに注力し、嫌われることを怖れます。他者の庇護が絶えない方や、肝心なところで親が出てきて決断を下すような方は、この「成長するな」を持っているかもしれません。

子どもであるな(Don't be a child)

「もうお姉ちゃんなんだから」「あなたがしっかりしていて助かる」など幼少期から子どもらしさを禁止された(と強烈に受け取った)ことで、自分を犠牲にしてでも相手の期待に応えることを優先する禁止令です。

自分から要求することなく、相手から「役に立たない」と失望されたり、信頼を失ったりすることを過度に恐れています。周囲の世話焼きをしたり、ほめられても謙遜したり、相手やまわりを立てているばかりの方は、この「子どもであるな」を持っているかもしれません。

お前であるな(Don't be you)

「女の子なんだからそんな格好しないの」「私が小さい頃はこんなことしなかったのに」「兄弟はこんなことないのに」など、人格が否定された(と強烈に受け取った)ことで、自分軸を持てなくなった禁止令です。

自分に理想の他者を期待されてきたことから、自分が注目されないことを怖れます。強い劣等感を覚えたり、過剰な競争心を持ったり、違和感のある存在になろうとしたり、自分が何者なのかわからなくなったりするなら、この「重要であるな」を持っているかもしれません。

セクシャルマイノリティの方々も、この「お前であるな」によって自認している性を否定され「自分がおかしいのだ」と苦しんでいることも少なくありません。

存在するな(Don't be/exist)

「お前なんて産まなければよかった」「お前さえいなければ」など、存在そのものを否定された(と強烈に受け取った)ことで、自尊心に大きな傷を負っている禁止令です。虐待を受けていた場合も、この禁止令を持ちやすいです。

自分の存在価値に疑問を持っているため、「自分は生きていてもしょうがない」「死んだほうが良い人間なんだ」「消えてしまいたい」と何度も感じてしまう方は、この「存在するな」を持っているかもしれません。

禁止令の中でも一番重く、この「存在するな」を禁止するために他の禁止令を複数持つことによって、生きることを許容していることも少なくありません。

幼少期でなくても禁止令は形成されるのか

個人的な実体験からは「ある」と考えています。中学生の頃のとある経験から、私は「存在するな」の禁止令を持ったことを自覚しました。ただ、これは「自覚できた」だけでしかなく、実は幼少期に形成されていた禁止令を激しく強化しただけかもしれません。

なにしろ、絶対的に信頼する存在からの非言語メッセージで形成されやすいため、言葉が未熟な幼少期に形成されると考えたほうがスムーズですし。

そして、禁止令はひとつだけでなく、複数持ち合わせますし、禁止令を禁止するための「拮抗禁止令(ドライバー)」もあり、さらにそれらが他の禁止令(特に重いもの)を覆っているため、ほぐしていくのは一筋縄ではいきません。

そんな、心の動きはしっちゃかめっちゃかで超メンドクサイのに、人間、よくやってると思うんですよ。色々といわくつきな禁止令ですが、決して悪いだけのものではないんですよね。

私の場合は特に、「属さなかったり、重要でなかったり、成功しなかったり、子どもでなかったりするなら存在していい」という、複数の禁止令によって「存在するな」を打ち消していました。だから「存在するな」がある限り、他の禁止令からもなかなか卒業できないんです。

それでも、子どもたちが親の私を全肯定してくれたことや、彼らが「存在するな」を持っていないとわかったことで、自分のことも「存在していいんだ」と思えるようにはなってきました。たまに闇落ちして、他の禁止令が連鎖して「だめだしのう」とか起こることもありますが……(こういうときは眠れるうちに寝たり、私の存在を肯定してくれた存在(夫)に傾聴モードになってもらってしこたま泣きます)

こうやって禁止令のことを知っておくと、自分や他者の行動のブレーキがわかります。非言語で培われてきたものですから、言語で簡単に許せるものではありません。まず、固定観念として自分が握りしめていることを認めましょう。

禁止令が結構重たいうえ、拮抗禁止令(ドライバー)とストレングスファインダーの関係もありそうだなあと思う(というよりドライバーが関わっているのは脚本……)ので、一旦この辺で。

余談

最近「成功するな」の禁止令を握りしめていることに気づいて、「成功とはなんだろう」「成功の先に何があるんだろう」と考えるきっかけを得ました。

「成功」の定義は今のところ、「穏やかに笑顔で過ごせる家庭を守ること」のようですが、これは私の「願い」であって、「成功」という実感がありません。まだ。

では、成功の先に何があるのかを考えたら、どうやら「失格」があると思いこんでいることに気づいたんですよね。親から失望感を何度も受けるたび、反骨精神を期待されていたこともわかっているんですが、自分で自分の存在を認められない私に、そんな強さはありません。叩けば簡単に折れます。

私にとっての「失格」は、「それ以上成長する可能性を奪われてしまう」ことと同義のようです。伸びてきた芽を摘まれるような絶望感。だから「コレ以上伸びたら摘まれてしまう」ことを怖れていたんですね。出る杭は打たれるのと同じ構図かもしれません。出すぎた杭は打たれないんじゃなくて、打ちのめされて歪になって使い物にならなくなるだけです。それが怖い。

振り返ってみると、「改善することは悪いことではないけど、全力を出しきれていない姿を相手に見せるもんじゃない」みたいな言葉がずっと心に刺さっています。反論したいのに、うまく言葉が出ないんです。全力を出して失望されたら、自分の可能性が閉ざされてしまう。でもそんなこと、相手に関係ないことも(頭では)理解しているし、全力を出し切れていないことを知られることも怖い。自分の存在価値が根底から覆される(と思い込んでいる)ことをできるわけがないのです。

本気で全力を出してうまく行かなかったら、おそらく、フラリと人身事故を起こします。私は存在価値のない幽霊みたいなものだから、きっと誰にも気づかれずにこの世を去れるはず、と思い込むことにして。それくらいリスクの高いことなのです。頭は働くのに、心が縛られているからメンドクサイですね。

幸い、行動はできるので、「全力」を500%くらいのことに据えて、100%を超えているなら大丈夫だろうと考え、まだなんとかこの世に留まっています。「成功」を考えても到底実現できないことを定義してしまうのも、そういうことなんでしょう。

自分がこんな感じなので、他者の可能性を見つけたら伸ばしたいと思うのです。もったいないと思ってしまうのです。成功できるなら成功してほしい。けれど、私のように「成功するな」を持っていたら、息苦しさに寄り添って、別の方法を一緒に考えたい。そうやって、他者の可能性に生かされています。

私のように禁止令だらけの人間は、弱みを強みにしないとすぐ死ねます。そして禁止令は無意識の行動や態度に表れるので、養育者から子どもへ伝播します。それは絶対に阻止しなければならないと思って子育てをしてきたのですが、以前子どもたちに「死にたいと思ったことがあるか」と聞いたら「は???」という反応でした。娘は「生きているのがメンドクサイと思ったことはあるけど、死にたいと思うわけじゃない」と答えていましたが。

このまま彼らが成人したら、私の「成功するな」は消失するかもしれません。それはそれで、抜け殻になりそうな気もするんですけども。そのときになったらまた、自分の不安に向き合ってみたいと思います。