見出し画像

1995年のバックパッカー19 中国9 成都ーラサ 三国志とジャーマン・ガールズ、そしてチベット

成都2日目は、ほぼ一日中カタリーナとココと過ごした。アーミーサープラスショップへ行くと2人が言うので、軍モノファンの僕もついていくことにした。

その店は中国軍モノだけを扱っていた。アメリカやNATOに属している国々製品がないのは分かるが、同盟のロシアやベトナム軍のモノまで無いのは物足りなく感じた。だが、中国軍モノがけっして悪いわけではなく、素朴だが質はまあまあだし、よく言えばデザインもシンプルだ。もともと軍モノに親しんでいたが僕は、水筒などの小物を中心に探し、蚊除けスプレーを買った。いつかどこかで中国軍の威力を知ることなるだろう。

ココとカタは、蚊帳が目当てのようでいくつかを広げて品定めをしていた。
外見の特徴は違っても、楽しそうな二人は姉妹のようだった。ココは金髪で、カタリーナは黒髪でトルコ系にも見えた。部屋をシェアできるくらい仲良くなれるのなら、上海や香港、せめて阻朔で話しかけておけばよかった。そうだったら、僕たちの関係はもっと深まったのだろうか、と少し悔やんだ。

僕の好奇心はどちらかと言えば黒髪のカタに傾いていたが、ココの方が僕に優しく接しているように感じられた。もちろん僕はココも好きだったので、勝手な可能性としては、どちらとも付き合える心情だった。少しエキセントリックなカタ。家庭的なココ。阻朔でもっと仲良くなっていたなら、月亮山や、池に浮かぶ島まで手漕ぎ舟で行っただろう。そうしたらきっとマイケルだって喜んだに違いない。デンマーク、ドイツ、日本。僕はそういう想像を楽しんだ。


ある日のドイツ人のカタリーナ。
別の日のカタ。日記を書いている様子。

だが、冷静になれば、これは僕の勝手な妄想で、阻朔ではやはりマイケルと男二人だったからこその体験ができたのだ。そしてそれはまだ甘い感触として残っていて、掛け替えのない経験だった。

午後は、彼女たちと別行動をとった。僕は杜甫草堂を訪れた。そこに向かう途中で刀削麺とゆで卵を食べた。

僕は子供の頃から読書が好きで、中学になると、背伸びをしながら様々な文学作品に親しんでいた。中国の有名詩人たちも当然かすっていた。そんな僕にとって、とても楽しみな杜甫草堂であった。

三国志ゆかりの場所や杜甫草堂のような個人的興味が強い場所は、やはり一人で行くに限る。恋人の同行すらためらうほど、自分だけの時間を過ごしたいのだ。

唐時代の詩人である彼のことを詳しく知らなかったが、世界的な文学者が4年も住み、多くの詩を作った場所から何かを感じれたらいいなと淡い期待があった。


僕は名所などを訪れる時は、いつも細部よりも全体を眺めて過ごすことが多い。いわば、ざっくりと人と土地のエネルギーの巡りや、当時のことを勝手に想像したりするのが好きだ。なので案内板の類をしっかり読むことは後回しになる。思考をいったん外した状態で、まずその土地と言葉の補助なく繋がろうと自然に試みる傾向がある。
杜甫草堂でもそこに今なお残っているはずの杜甫本人や土地のエネルギーを楽しもうとしていた。そして、訪れた土地のエネルギーを受け取り、縁を結べたなとなってから、初めて解説の言葉に手を伸ばす。

杜甫草堂は、実際彼が滞在した場所らしいが、そこにはもう杜甫は感じられなかった。展示や建築などに文句をつけるつもりはなく、ただ「彼はここにはいないな」と思った。

だが、一歩その施設を出て周辺を散策すると、そこには杜甫がかつて愛しただろう四川の田舎の素朴な美しさに溢れていた。


決して華美ではないが、手入れの行き届いた古い家や小径、それらを縫うように通る小川。生活を結ぶ小さな橋。水面は水草の蒼に覆われて、その下に流れる水の姿を隠しているが、その分風景全体が静止し、目の前がすべて絵か写真のようだった。

僕は地元の人が休むために設置されているようなベンチに腰掛け、そこで昔ながらの風景に埋没した。その場所にいることだけで心地よく、僕はそのベンチでいつの間にか、うたた寝を楽しんでいた。おそらく杜甫も詩作や生活のために小川のそばに佇み、同じようにうたた寝に落ちていったこともあるだろう。
僕は戸外での昼寝特有の浮遊感に身をまかせ、目を閉じた後で広がる世界は、僕の心を千数百年前の四川の水辺へと漂着させた。

翌日は雨だった。

雨は旅人にとっては、強制停滞にもなるが、休息を与えてくれる。旅の中の僕は、惰眠を貪って過ごすことが多い。

その日唯一の外出先は、川を挟んで交通ホテルの向かい側にあるブラックコーヒーホテルだった。
そこはかつての防空壕で、中はやはりひんやりとしてカビ臭く、通路は入り組んでいた。観光名所にもなっているようだったが、そこでコーヒーを飲む気にもなれずに、見学だけで終わらせた。

帰りにデパートに寄り、ISO感度400のカラーネガフィルムを探したが見つからなかった。これからチベットやその先のネパールに向かう際に、やはり400のフィルムは必要になるはずだったが、大都市成都で見つからないのは計算違いで痛かった。


その日の日記はそれだけの記述のみで、カタとココのことは触れていない。おそらく夕食ぐらいは合流し、その後は、それぞれに静かに過ごしたのだろう。

翌日は成都を発ち、チベットのラサへと向かう日だった。

僕は5時半に起床し、空港行きの迎えのバスに乗った。僕の記憶では、ココとカタとそれぞれにハグを交わし、ココは「ドイツに来たらあなたは私たちに絶対連絡しなければならない」と微笑みながらも命令するような口調で言い残してくれた。

だが、最後の別れは早朝だったので、実際は前の晩にハグを済ませ、当日の早朝は彼女たちの寝顔をちらりと見てから、こっそり静かに部屋を出ていったのかもしれない。僕は「連絡しなければならない」、つまりyou must call meをその後誰かに向かって言ったとしたら、それはココの言葉を繰り返しているのだ。僕たちは、子供の頃から「誰かの言葉を真似て」を繰り返してきた。そしてそういう言葉の中には、感動の記憶が伴うものもある。

成都発ラサ行きの飛行機は、予定より1時間ディレイの8時に離陸した。

機体が滑走路からふわりと浮かび上がる瞬間が僕は好きで、そこには過去と未来の間にあるはずの今が消え、無所属の余白がぽっかり生まれる。

人は、どこかに属していることで安心できる一方で、全てから無関係に解き離れていたいと願うことがある。離陸のふわりとした頼りない瞬間は、心の奥にあるそういう願いを思い起こさせる。空を飛ぶ鳥に憧れた幼い日の夢、大地にすら属さずにいたいという自由への憧れは、実は生物としての本能的な未知への冒険心だと感覚的に知らせてくれる。

僕は離陸時の、ある意味スピリチュアルな時間を楽しむことを終えると、成都での時間を振り返り始めた。それはいつしかアホな妄想を膨らませた。

もし、僕たち3人が一つのベッドで寝ることになっていたらという妄想である。これは、もちろんそういう大人の非日常的な快楽に浸ることを3人が選んでいたらという妄想だ。

これはかなり実現の可能性が低いものだった。それは分かっていたが、それでも0%ではないことに興味が引かれた。それを実現させるのに必要な条件は星の数よりは少ない。おそらく100個ぐらいかもしれない。それが奇跡的に1つの漏れもなく起こっていたら、世界一美味しいカルボナーラを作る条件のように、ひとつひとつ的確に行われてクリアされていったら、僕とココとカタが全裸になって、あんなこともこんなこともしまくって、一日中あの部屋に入り浸ることが起こり得るのだ。

チベットのラサ行き飛行機は、順調に高度を上げ、僕の妄想を途中下車させることなく、やがて安定する高度に到達したに違いない。

僕たち3人があの部屋で全裸で楽しむ確率と、この飛行機が落ちる確率はどっちが低いのか、それは誰もが解けない問いで、僕の頭の中にはそういう愚問が日々生産されている。当時も今もだ。

10時頃、チベット、クンガ空港着陸。

機体とターミナルを結ぶ通路はなく、一旦滑走路の端に乗客全てが降ろされ、ターミナルビルへと歩かされることになる。チベットを目指す多くの人が知っていて、当時の僕も知っていたが、このクンガ空港の標高は、富士山の山頂の標高に近い。これはただ高いなあという素朴な感想以外にも、高山病というオマケをいきなり僕に投げてきた。

僕の芸術家としての繊細さは実は興味ないことへの鈍感に支えられていると知っているが、この時僕を襲った針で刺すような頭部への痛みは、実際そうされたのかと訝しく感じるほどの鋭さだった。

そしてぐるんぐるんと足腰を揺らす眩暈までやってきた。学生の頃から登山を趣味にしていた僕は、三千メートルの標高を頻繁に体感していたし、クンガ空港の標高をたかがしれたものだと舐めていた。だが、実際自分の体がそんなになってしまって、はじめて一気に標高を上げることのリスクを思い知ったのだ。

とはいえ、他の乗客全ての眉間に皺が寄ったわけでなく、僕より明らかに年上で、体力も劣るであろう人すら笑顔で滑走路を闊歩しているのだ。これはもはや運というのもあるのだろう。ああ、僕はきっと成都で女の子たちと部屋をシェアすることで運のカードを使い切ってしまったのだと思った。どうせなら全裸3人の可能性を深掘りしておくべきだった、可能性に賭けて誘うべきだったなどと悔いたが遅かった。

僕はターミナルのベルトコンベアから自分の荷物をピックして、その重さによって頭痛が増すのを感じつつ、さらに動悸も始まった。だが、それ以上に体に負担を与えることをせずに、深呼吸をし続けて酸素をなるべく摂り込むことに勤めた。

そのせいか、ラサ市内行きのバスに乗り込む頃には、動悸と眩暈からは解放されていた。どうにかこうにかである。僕はすでに妄想からも解放されていたが、それを再上映しないように努めた。興奮しないこと、ゆったり動くことが大切だからだ。僕は心を静かに保つことの大切さ、マインドコントロールの術を習うことの必要性などを、世界の屋根と呼ばれる場所で、身を持って教わっていたのである。



 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?