書くことで救われる心

書くことを決めたには、もう少し深い訳がある。

絶賛、『光る君へ』を夢中で観てる私にとって
「書くことで救われる」
ということを、何度も耳にしているのだが、
実はありがたいことに、これまで私自身も
「書いたら良いんじゃない?」
と言ってもらえることがこれまで多々あった。
その極めつけが、先日、ドラマなど全く観ない友だちに言われた
「めいちゃんには書くことをオススメする」
という言葉だった。
ついつい私は、夢中になって光る君へを観てるもんだから、
「私も紫式部になれちゃうかしらん?」
なんて陽気に身の程知らずも甚だしいことを思ってしまいそうになるが、これは良い機会なのかもしれないと、書くことを後押ししてくれた。

書くことを勧められてきたのにも関わらず、私はこれまで、あえて書く時間を持つことはしなかった。

高校から大学まで、私は演劇にどっぷり浸り(といっても、小劇場演劇ではなく、大衆演劇が専門である)、さらに学部も文学部だったこともあり、とにかく表現する場に無意識にも恵まれていた。読んで、観て、聞いて、考え、かく。時には立体化させる。それがあまりにもあたりまえとなっており、気づいた時には表現することは切り離し難いものとなっていたのだと、今は思う。

しかし、私は、表現とは程遠い仕事に就いてしまったのだ。誤算だった。

何も生み出していない自分に、悶々とするようになった。

先日、自分の過去を振り返る都合があり、写真などを遡っていると、大学生の最後に演出した公演のフライヤーが出てきた。
作品のサブタイトルのキャッチコピーには、
「夢を見ることは誰にも止められない。」
とあった。その時作成した電子パンフレットに、たしか自分の寄稿があるはず…と探すと
「私たちは変わらなければならない」
と書いているのだ。
なんてこった、今の自分の何倍も大人びたこと書いてるじゃないか!
内容はそれなりに青い青い作品ではある。しかし、今の私の彷徨う魂が少し留まるのを感じた。

そうか、この時から、書きあらわすことで、自分で自分を導こうとしていたのね。

誰かに評価されたいとか、すごい文章を書きたいとか、そんな大それたことを望んで書くのではなく、ただひたすら自分を励ますために。

私もまた、書くことに救いを求めたのだ。



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