見出し画像

「私」を決めるな

20歳にして日本を離れることを決意し、27歳にして人生に絶望した。

しみったれてるのにも疲れたので、絶妙な文体スタイルを確立することに、日々邁進したい。

自分は要らない。自分をちくりと刺す嫉妬心は要らない。自分を壁へと追い詰める余裕のなさは要らない。「私が私が」精神は要らない。無意識に横目がちな比較心は要らない。心を食い尽くす勝ち負け論は要らない。

つまり、一回「自分」を捨てて、「自分」から解放されたい。

自分は取るに足らない。それで良い。取るに足らないから、正直だから、時たま信用を得ることができる。
一生懸命人と向き合い続けるから、それが人を変えたりする。
でも、今はそんな論議すら、要らない。

自分のことは、よくわかった。今は、もっと大きなものに関心を向けるべきだ。自分を捨てれば、まっさらな誰かがいる。何歳かもわからない、何をしてるかもわからない、性別すらあいまい。ただまっさらかのように見える誰かが。

その誰かは、この国ではこう振る舞うべきとか、この国ではこういう人間が評価されるとか、こういうことをすれば人は喜ぶとか、モテるとか、狙ったり、もくろんだりしない。
ただ、出てきた、そこにある行動として、ひとつひとつ対処する。
考えないで行動するっていう意味じゃない。他者から見られることを「見越して」スコアを叩き出すかのようには、決して振る舞わないということだ。

だから、打算的なことを言わない。数字が顔にうっすら浮かび上がって見えるようであってはダメだ。思考も理性も良識もすべてが、損得勘定に支配されてるなんて、絶対にありえないし、他者からの評価などは、考えるわけもない。

え、評価を、考えない…?
と一瞬思いますね。今は自分でない誰かもやはり思いました。
つまり、髪はボサボサ、清潔感ゼロの外見でも全く気にしないっていう意味…?

たとえば、他者からどう見られるかを考えて、仕事をするってことは、上司から、同僚から、顧客から、クライアントから、どう見られるか気にしながら振る舞うってこと。それをやり始めるとあまりいいことが起こらない。
仕事がうまくいくときは、淡々とこなして、無我夢中で考えて、その結果として、何かしらの評価を受けるのであって、評価が先に来てはいけないし、評価は目的じゃない。
目的は、仕事を頼んでくれた人の要求に応えること、これから頼んでくれるであろう人たちに可能性と解決策を教えること。今困っている人を解決に導くこと。

人から必要とされることは、嬉しい。社会に居場所があるかのよう。

実は当たり前で簡単なことなのに、つい忘れてしまう、大事なことなのだ。
自分でない誰かは、つねに生身でつねに動いて変わっていく、まさに生態なので、そのイメージは固定されてほしくない。

自分を「持つ」ってことはつまり、自分を1枚の写真の中に閉じ込めてそこから出られなくすること。それはとっても苦しい。
「自分はこうです」と言えることは素晴らしいが、切り口を間違えれば、単なる自分というパッケージの出来上がりで、自分が一言のキャッチフレーズで片付けられてしまう。

私たちは、この地球の中に生きるひとつの存在に過ぎないから、その大きな作用の中で、1秒だって同じではいられないはずだから。
ウイルスだって、どんどん変化していくように。

私という誰かは、変わる、変わりつつある。
私を固定するな、私を枠にはめ込むな、私に形はない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?