世界を転々としたヤドカリ族のふるさと探し。 - アイデンティティと「おかえり」と「ただいま」 -
あなたの【ふるさと】はどこですか?
私の家を転々とするヤドカリ生活の始まりは、大学2年に上がる頃に、父と二人だけの暮らしが息苦しくなって飛び出したのがきっかけ。それまでの18年ほどの間、ひとつのまちにずっと暮らしていたわけだが、若かりし私は【ふるさと】という単語を意識をしたことなど、ほとんどなかったと思う。
「地元はどこだ?」と聞かれれば「千葉」と答えてはいたものの、別に特別千葉という土地そのものに愛着があったわけではない。幼稚園から国立に通っていたこともあり特段近所に友人が多かったわけでもなく、さらに住んでいたまちの開発が進み見慣れた景色もなくなって、思い出はあるものの、地元に帰っても特に私を迎えてくれる場所も人もなくなってしまった。
しかも私が家をでて、父がひとりで住むようになってからは、自分の部屋だったところも物置になってしまい、さらに見栄っ張りな父は私が突然散らかった家に帰ることを嫌がった。そして気軽には帰ることができなくなり、もう自分が住んでいた家に帰らなくなって10年以上が経過している。
自分が一番長く育った家にさえ、帰るところがない。
あらためて、私がふるさとと呼べる場所がないと感じていたのも無理はないよなあと思う。
しかしそんな私が、いつの日か【ふるさと】と呼べる場所が作りたくて必死にもがくようになる。それはその後数年続くことになる、子供との海外暮らしがきっかけだった。
"アイデンティティクライシス"
そんな私が本格的な移住生活をするようになったのは、夫と結婚して彼の暮らすアメリカのテキサス州へ引っ越したところから始まる。幼少期から大学に入るまで一箇所に留まっていた私が、まさか国をまたにかけて移動するような転勤族の仲間入りをするとは、本当に人生わからないものである。
アメリカへ移住した時、息子はまだ生後4ヶ月で、私は初めての夫との共同生活(ずっと遠距離後の同居)+初めての子育て+初めての海外生活+初めての英語+初めての車の運転と、突然マリオを始めたと思ったらクッパ出てきたくらいの難易度にぶち当たっていた。もうとにもかくにもAボタンとBボタンと矢印キーを何が何やら分からず連打しているようなものである。目の前のことにいっぱいいっぱいで、正直まともに未来を考える余裕は当時はなかった。
とはいえ、自分一人で海外赴任についてきているならともかく、子供も一緒となると、考えなければならないのは子供の言語教育や文化教育や情操教育などである。
当時の私たちは、期限付きでの雇用だったため長く一箇所にとどまることができない+次にどこにいくかも世界規模で皆目検討がつかない状態だった。いつ日本に帰ることができるかもわからない。もしかしたらずっと海外かもしれない。でも次にどの国に行くかも分からない。言語すら違うかもしれない。
どう子供と向き合い、どんな環境を与えてあげたらいいのかと悩みまくる日々の中で、当時耳にしたのが、海外で育った日本人の子たちが陥りやすい「アイデンティティクライシス」の話。
「アイデンティティクライシス」とは、日本に起源をもつ子が海外で育つ中で、日本人の両親と一緒に必死になって日本語を大学レベルまで学ぶも、やはり日本に帰って他の子たちと話すと根本的な文化のところが共有が難しく、日本をホームだと感じることが難しい。かといって完全に日本人であることもあり、海外でも自分をホームだと感じられるかというとそれも難しい。結果自分は日本人でもなく、その国の人間でもなく、一体自分の祖国はどこにあるのか?自分のふるさとはどこになるのか?自分は何者なんだ?と悩み、狭間で苦しい思いをしてしまう、といったものである。
私はこの話を聞いた時に、これからまた転々としていく暮らしの中で、
この子の「ふるさと/故郷」はいったいどこになるんだろうか?
どこに行ったら、「帰ってきた」と感じられるんだろうか?
そこに迎えてくれる友人や場所はあるだろうか?
自分が自分でいられる場所を、この子は見つけられるのだろうか?
と、自分たちの仕事の都合で子供の人生を振り回してしまっているという罪悪感に似たものを強く感じた。「そんなふうに思う必要なんてないのに」と今では思えるが、その時の素直な感情を言葉にするなら、罪悪感や、不安といった感情だったことを覚えている。
アメリカにいた約2年半の間は、まだ子供も幼く、日本語のベースがしっかりするまでは手元で育てようと思っていたため保育施設などにも預けていなかった。そのため友人といえばもっぱら日本人コミュニティの仲間だったのだが、そんな彼女たちもひとり、またひとりと帰国し、当時の息子のお友達の半数以上はもうテキサスにはいなくなってしまった。
もちろん現地に残っている子たちもいるが、テキサスでは地元コミュニティと全く関わってこなかったことが、テキサスを「ふるさと」と呼びたいのに、どこか呼びきれない自分の中にあるしこりのようなものになってしまっていたことは間違いない。そして当時自分の中に眠る「ふるさと」への偶像がどんどん固く黒い塊のようになっていっていたのである。
息子の"ふるさと"探し
テキサスを息子の「ふるさと」にしきれなかったと負い目を感じていた私が、次に移動したデンマーク・コペンハーゲンで自分に誓ったこと、それは
「息子がもう一度デンマークに来た時に、懐かしいと思える場所や、覚えていてくれる現地の人を作ること。」
今度こそ、コペンハーゲンを息子の「ふるさと」と呼べるまちにしたかった。なぜなら彼はその頃2歳半で、おそらく大人になっても2歳〜3歳くらいの記憶から残っており、本人の記憶や人格形成においても、大切な場所になるだろうと思っていたからだ。
もしかしたら、彼にとって最初の「ふるさと」になれる場所かもしれない。
そう意気込み、私は自分自身もどうにかデンマークと縁を作るべくあちこちに顔を出しながら仕事をしたりしたし、悩んだ挙句、英語を習得できるインターナショナル保育園ではなく、デンマークの地元の幼稚園へ入園させた。デンマークはデンマーク語を使い、デンマーク語はデンマークでしか使えないのでおそらくその次の土地へ移った時に使えなくなってしまうことはわかっていたのだが、散々悩んで悩んで、現地の幼稚園へ彼を通わせることにした。
彼は親の私すら驚くほど適応能力が高く、幼稚園の初日から、
「帰りたくない!もっと遊ぶ!」
と言い張った。言葉が通じないことをものともせず、元来のかまってちゃんで、ひとりより誰かと遊びたがる性格が功を奏して、気がつけばお友達を次々と作り、1年後には周りの子供たちと大差ないくらいにデンマーク語をぺらぺら操る日本とデンマーク語バイリンガルへと成長した。
"デンマークの幼稚園でこうやって楽しく過ごせたなら、きっといつか帰ってきた時にまたこの幼稚園にきたら何人かは先生にも会えるだろうし、お友達にも会えるに違いない。息子はよくやったな・・"
そう思ってはいた一方、心のどこかで、彼のアイデンティティは結局どこにあるんだろうか、彼はデンマーク人なのか?日本人なのか?日本で暮らしたことのない彼が、日本を懐かしく思えるんだろうか?そんな疑問がずっと私の心の中をぐるぐると回っていた。
息子のありのままの姿を
そんな中、知人の紹介でコペンハーゲンにある、シュタイナーの幼稚園の先生に、デンマークの自然保育の考え方やシュタイナーについてお話を聞けるチャンスがあり、デンマークでの教育やその園での取り組みなどをひとしきり聞いた後、その方の包容力に、私は自分の個人的な悩みをぶつけてみたくなった。
勇気を振り絞って、ひとつ、個人的な相談をしてみてもいいですか、と聞いてみると、もちろんどうぞ、と紅茶のおかわりを淹れてくれた。
「息子を、何者として育てたらいいのか、どこを"母国"と呼べるようにすべきなのか、私は何を伝えたらいいのか、迷っているんです。私たちの都合で彼をこうやって転々とさせてしまっていることが、彼に辛い思いを今後させたりしないか、とても気になって仕方がないんです。」
私はありのままに彼女にそう伝えた。すると、彼女はにっこり笑って、
「あなたのお子さんは、いま、とても素晴らしい経験をしているのよ。」
と私に呟いた。
「日本人だとか、デンマーク人だとか、そんなこと関係なく、たったひとりのあなたの息子のありのままの姿を見てあげて。あなたの息子は今、髪の色も目の色も言葉も違う子供達に囲まれて、当たり前のように両親と友人とで言語が違う環境でもすくすくと育っている。そこに日本人だとかデンマーク人だとかそんな境目はないの。大切なことは、あなたの息子がどんな話に興味を持つのか、どんなことができるようになってきたのか、どんなことで喜び楽しめる子なのか。その子自身をよーく観察してあげて。あなたが彼の未来を決めつけて心配なんてしなくて大丈夫。子供は無限の可能性を持っているのよ。」
「土地の記憶」 と 「人の記憶」
彼女がくれた言葉は、私をがんじがらめにしていた固定概念をとっぱらってくれた。
"帰れるふるさとがないと感じる" = "その子にとってつらく苦しいこと"
私はいつの間にか、こう思い込んでしまっていたのだ。
そこで私は家に帰り、自分の息子をじっくりと観察してみることにした。
彼はどんな時に嬉しそうにしているだろうか。
彼が一番楽しみにしていることはなんだろうか。
彼にとって誇りに思えることってなんなんだろうか。
そこで見つけたこと。
それは、息子はとにかく友達と遊ぶのが大好きだということ。
思い返せば彼はまだヒューストンで暮らしていた1歳の頃から、公園へいくと、一人では遊ばずに、必ず公園にいる同じくらいの子にロックオンしてつけまわし、「遊ぼう!」と言うでもなくいつの間にかそばへすすす、と行ってごくナチュラルに遊びに混ざるような子だった。
一番驚いたのは、当時2歳にならないくらいだった息子が、公園にいた圧倒的に年上の黒人の小学生たちのグループに、これまたすすす、と近寄っていき、グループに混ぜてもらおうと必死においかけた。当然のごとく無視されるし向こうのほうが走れるし移動が早いので、あいつなんだよ、と言われ除け者にされていたにもかかわらず、彼は小一時間ほどその子達をおいかけて一緒にあそぼうとしていた根性には私も驚いた。
そしてそのグループの子たちが帰ろうとしたとき、リーダー格の子がわたしのもとへ近づいてきてこう言ったのだ。
「What is his name?」
私はその子に息子の名前を伝えると、その子は
「Bye, ●●. 」
と息子に手を振って帰っていったのだ。
息子は年齢も国籍も人種も超えて相手の心を開いたんだ。と思って私は本当にびっくりした。なにせ子供のころの私は真逆で、グループにいてもはじかれて飛び出てきてしまうくらい弱い子だったから。
デンマークに行ってもそれは変わらず、彼は言葉も通じない幼稚園で、相手にされなくても自分が仲良くしたい子を追いかけまくり、1年越しで親友の座をゲットしたこともあった。我が息子ながら天晴れ。そんな人好きな息子は、あっという間にデンマーク語もネイティブレベルまで習得した。
この子にとってのふるさととは、場所ではなく、誰かの "人の記憶の中" にこそあるのかもしれない。
ちなみに私は「土地」や「場所」そのものにも強く郷愁を感じるのだが、息子はそこに大好きな「人」がいるかいないかをとても気にする子だった。
そうか。ひとりでも多くの人が息子のことを覚えていてくれたなら、息子がこれからたくさん引っ越しをして、住む土地が変わってしまっても、寂しい思いをせず心に拠り所をもって生きていけるかもしれない。日本人とかデンマーク人とかを超えて、ひとりの人間として、自分のこれまでの経歴を宝物だと思えるかもしれない。
そう思った私は、とにかく息子をいろんなところへ連れていき、いろんな人と"関わり"を持たせるようにしていった。彼が、いつかその土地での暮らしを思い返した時に、たくさんの人の笑顔とともに思い出せるように。いつか帰ってきた時に、彼を懐かしがって出迎えてくれる人がいるように。
「おかえり。」と「ただいま。」
住む土地を転々とするということが、「ふるさとがない」ではなく、「懐かしいと思えるふるさとがたくさんある」と感じられるようになるために、私は息子にどんなことができるだろうか?
そう考え、私はデンマークにいた間はもちろん、日本に帰ってからは、ことさらいろいろなところへ息子を連れて顔を出すようにした。
同じ幼稚園に通うお友達といろいろなイベントに顔を出すのはもちろんのこと、
フリーランスとしての仕事の打ち合わせ現場に連れて行き、熊本で活躍するいろんな方とご一緒させていただいたり、
熊本のある商店街のまちおこしのための自主制作映画が公募されていたので息子をオーディションに参加し、出演させていただいたり、
熊本の商店街における新しい取り組みに関わる建設現場を見にいかせていただいたり、
熊本で当時新しく始まる冬の風物詩となるイベントも、彼がそのイベントを「これうちのママが手伝ってるんだ!」ってまるで自分のホームのように自慢できるようにと運営に参加し、イベント当日は息子のお友達も連れてみんなで楽しんだ。
そうやって息子がまた熊本を自分のふるさとだと思えるように、と始めたまちとの関わりが深まるにつれ、実は何より自分自身が「ただいま」と言い、「おかえり。」と言ってもらえる場所を欲していたんだという事実に気がついた。
そう。壮大な息子のふるさとづくりプロジェクトは、実は私のふるさとづくりプロジェクトでもあったのだ。そう気づいた時、ふいに頬を涙がつたった。
新しい土地で
そして2021年春、また新しい土地へと移動。さすがに小学校にあがってからの転校ということで寂しい思いをしていた息子も、また新しいお友達に囲まれて、毎日近くの公園で日が暮れるまで遊び倒している。
ふと思い返すと、テキサスでの日々も、デンマークでの日々も、熊本での日々も、本当に懐かしく、それぞれにたくさんの想い出も会いたい人たちの顔も、まるで昨日のことのように鮮明に浮かぶ。
引っ越してから、一度熊本に弾丸で帰省した時には、たくさんの友人が私たち一家を迎えてくれた。「おかえり!」と声をかけてくれた友人たちもたくさんいたし、「会いたかったよ!」と言ってハグしてくれた人もいた。
そこには、ちゃんと私たちの"居場所"があった。
ああ、これがふるさとなのかな、と思えた。
ふるさとがあるって、なんて幸せなことなんだろう。
息子に、テキサスでの日々やデンマークでの日々について聞いてみることがある。
テキサスでのことは覚えていないが、NASAへ遊びに行きたいという。
ワニを直近で見るのは怖いという。
デンマークに行ったら、よく遊んでいた友達たちにも会いたいという。
港で食べたアイスも食べたいという。
彼にとって、テキサスも、デンマークも、熊本も、間違いなく特別な場所で、ふるさとなんだろうと思えた。
一箇所の場所に留まることができないということが、ずっと気がかりだったが、今となっては、心から言うことができる。
ふるさとがたくさんある人生は、めちゃくちゃ幸せな人生だと。
会いたい人たちがたくさんいる。
行きたい場所がたくさんある。
そして、まだ訪れていない場所も、まだ見ぬ人たちさえ、
自分のふるさとのようにも思える気がするし、
自分の大切な家族のようにも感じる。
とはいえ、息子が成長するにつれ、
もしかしたら転々としてきたことを寂しく思う瞬間もあるかもしれない。
でもその度に、各地で紡がせてもらった絆を思い出して
一緒に会いに行くのもいいだろうし、
また新しいふるさとづくりをするのもいいだろうと思う。
私たちは、きっともうどんな場所でも
新しいご縁を紡いで、居場所を作っていくことができるはずだから。
世界情勢がもっと落ち着いた時には、また家族で旅に出ようと思う。
熊本で生まれた娘は、兄の経験にずるい、というかもしれない。
いやいや、そう言わせないくらい、まだまだこれからたくさん素敵な経験をして、旅をして、ふるさとを増やしたいなと思う。
今まで私と出会ってくださったみなさまへ。
しばらくぶりに私たち家族がそのまちへ帰り、会えることがあったなら、
もしよかったらこの声をかけてくれると嬉しいです。
「おかえり!」って。
そしたら私もはにかんで、
「ただいま!」って言いたいのです。
私たち家族の旅はまだまだこれから。
息子と共に、私も頑張っていこうと思います。
素敵な出会いが、これからももっともっと、ありますように!
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