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ページビュー数、急上昇の「怪」

ここのところ、noteをサボっていた。

収益化(マネタイズ)するには、まとめて記事を書いて、毎日同じ時間に更新をして、昔の記事も推敲や修正をしないといけないな、と思ったら、途端に腰が重くなり、キーボードから遠のいていた。当然、さらに収益化からも遠ざかってしまった。

気合いを入れただけで疲れちゃう、例のアレですよ。できる人はルーティン(習慣)でやるのに凡人はすぐに心がくじけちゃうアレですよ。

とはいえ、フォローしている人たちの記事は読みたいので毎日noteを覗いてはいた。自分の記事に「スキ」がついていれば、やっぱりうれしいし、ダッシュボードも確認していた。

記事のビュー数を見ていて、異変に気が付く。

我がnoteの不人気コンテンツ「勝手に現代語訳 怪談牡丹灯籠」のページビューが急増しているのだ。記事を更新するたびにフォロワーが2~3離脱するという、わたしにとってはもはや恐怖のコンテンツであった。マイナスになるとわかっているのなら、やらなくていいやと思ってしまうのが人情だろう。否定されても、やる気を維持できるほど、わたしは強い人間ではない。やる気も有限、体力も有限、時間も有限である。

でも、アクセス数が増えていることは素直に喜んでいいのではないだろうか。

わたしのnoteは、毎日更新をすれば週に1,500~2,000ぐらいのビュー数がある。更新を怠っていると週のビュー数は700ぐらいに半減する。

ここ1週間は更新していないのに1,200ぐらいある。内訳を見ると、650ぐらいは「怪談牡丹灯籠」の記事に対するアクセスなのだ。

わたしはケチなのでnoteの有料会員ではなく、アクセス解析もしておらず、SEO対策も何もしていない。なので、どこから誰が来ているのかは、さっぱりわからない。

念のため、Googleで「怪談牡丹灯籠 現代語訳」で検索すると、検索結果の最初(一番上)に出るようになっていた。Google先生が有用性を認めてくれたことも一因か。とはいえ、そんなに「怪談牡丹灯籠」が頻繁に人々が見たがるコンテンツだとも思えない。(圓朝先生、ごめんなさい)落語や講談好きなら来てくれるかもしれないが、落語や講談好きって、そんなに多くはない。(BTSのファンよりは絶対に少ないでしょう?)

次にニュース検索をすると、歌舞伎や落語、講談、演劇の舞台が数多くあり、このイベントに行くお客さんが予習で、行ったお客さんが振り返りで見に来てくれたのかもしれない。

あるいはどこかで誰かが褒めてくれているのかもしれないし、誰かにどこかで盛大にディスられているのかもしれない。

うれしくもあるが、自分の堪え性のなさが悲しくもなる。

「怪談牡丹灯籠」は22部の構成で、わたしも円朝の原作にのっとり、全22話としている。しかし、途中で心がくじけて、アップロードが中途半端な状態で停止している。今、確認したら、14話までしかアップしていないことが判明。今年1月30日が最終更新日だ。あと8話。正直、この終盤からが、超絶面白いのだが、その手前で力尽きていた。パソコンの中の原稿はおおむね完成しているので、推敲して整えれば更新できないこともない。

正直、過去の記事のビュー数が急増する、というのは、noteでは初体験なので戸惑っている。

noteユーザーには不評でも、note外ユーザーにウケる、ということも念頭に置いて、今後は記事を書いていくべきなのかもしれない。noteをやっていない人からしたら、noteもwordpressもhatenaもAmebaも大差ない、単なる「ブログ」に過ぎないのかも。

もちろん、noteユーザー同士の相互扶助機能も侮れないとは思っている。(おかげさまの気持ちを忘れずに)

【まとめ】ビュー数が増加した要因の予測

1 Google先生が検索上位に上げてくれたから
2 『牡丹灯籠』関係の舞台が多いから
3 どこかで誰かが激賞。人気者がリンクを貼ってくれた!
4 どこかで大炎上中。本人が認識していないだけで実は大ピンチ

これはポジティブな反応であると信じて、フォロワーが減っても、記事のアップロードを継続する。最後までやり遂げようと決意した。(できるかしら)

そういえば、現代語訳を完成させて、物語の舞台になった土地の写真を撮りに行き、今年中にkindleで出版する、という企みもあったのだが、転職して忙しくてすっかり忘れていた。

わたしにとってフィクションとは、自分だけの秘密基地のようなもので、洞穴であり、地下室であり、子どものための段ボールハウスにも似ている。自分を守り、外界との接触を断って、うっとり、耽溺できる場所だ。そこでは自分自身からも解放され、周囲の人間さえ消えてしまう。そして、そのフィクションはヴァージニア・ウルフがいうところの鍵のかかる部屋でしか生まれない。

ゆえに、日本社会の労働者である自分と、フィクションをむさぼる夢想家の自分は、とても食い合わせが悪い。この二者が反目しあっている、というよりは、二人同時に立たせようとすると共倒れの危険がある。

現実的には夢想家の自分では全然食えないので、労働者の自分がいつだって優先される。優先せざるを得ない。しかし、夢想家が自分の「核」であることは間違いない。

これは神の思し召しに違いない。夢想家の自分のための時間を作って、ちゃんと書き続けていこう、と思わせてくれる出来事だった。


チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!