余命という概念
今年の2月23日がnoteの最後の投稿になっていた。
年度末の仕事が忙しく、また体調不良だったため、noteどころではなかったのである。
しかし、この「忙しい」というのは半分本当で半分嘘である。
仕事量は確かに多いが、ほかのことができなくなってしまうのは(身体的な疲労はもちろんあるが)、精神的な疲労感のほうが強いのではないかと思う。
焦燥感と自分で自分を急かす、あの感じがなくなれば、もう少し余裕を持って、日々を暮らせるはずである。仕事終わりのリセット方法(ある種の儀式)を作ってみようかしら。
そんなこんなで、今年の二月下旬より、腹部の鈍痛が続き、きちんとした検査を受けてきた。検査結果は、命に関わるものではなかった。その事実に安堵しつつも、そのことに落胆していた。
わたしはどこかで、
「あなたは末期の胃がんです。余命半年です」
「(ガーン)」
みたいなドラマチックな展開を期待していたのである。
余命がいくばくもなければ、私は何をするだろう。
まず、断捨離、断捨離である。とにかく捨てまくるだろう。生活に必要な最低限度のものしか残さず、捨てる。
次に、職場で引き継ぎマニュアルを作り、仕事を整理する。
そして、書きかけのいくつかの作品をきちんと完成させる。
この三つぐらいである。私の人生は、孤独であるがゆえに、ひどく簡素でもある。(それを疎みながら、心底望んでいるような節もある。自分のことだがよくわからない。)
余命半年なら、恋人がほしいとか金儲けしたいとかも思わない。できる限りのアウトプットに専念するだろう。
そう、時間がなければ、インプットにそれほど重点は置かなくなる。
ドストエフスキーやトルストイの長編小説は避けるだろうだし、RPGゲームには手を出さず、英語の勉強もやめるだろう。
しかし、検査の結果、私は健康ではないにせよ、すぐに死ぬことはないとわかった。つまり、時間は持て余されるのである。時間を持て余しているつもりなどはないが、延々とtwitterを眺めたり、無駄な調べものに費やす時間を顧みれば、私は時間を持て余しているのである。
ここで極端なことに(私の思考の欠点で)、私は100歳まで生きるような気がして、うんざりしている。
私の時間は残されている。だから、勉強をすべきなのだろう。
余命宣告願望とは、リセット願望でもある。終わらせたい、という欲望は誰しも持っているものだと思う。
そして、このコロナ禍においては、いつ自分の生命が終わってもおかしくないのである。リアリティはないが、目の前にある危機である。
余命が二週間であれば、何もできないだろう。その可能性だって、なくはない。胃がんで余命宣告されるより、高い確率だ。ただ、私を含め、自分が死ぬことを想定していない人が大多数である。死者数は単なる統計的な情報に過ぎなくなっている。
不謹慎な自分に呆れたり、感染症に慄いたりしているが、実のところは、自分自身のことを好きになりたいだけなのだ。
怠惰な自分を好きになることは難しい。インプットとアウトプットする自分しか肯定できない。しかし、これも現代病という感じもする。
明石家さんまさんは仕事で失敗をして落ち込む人に対して「おまえはがっかりするほどの人間ではない(自分を過大評価している)。自分に期待しているからそうなるのだ」という趣旨のことを言っていたが、その通りだと思う。
わたしは、明日死ぬかのように生きることができず、永遠に生きるかのように学ぶこともできない、ごくごく平凡な怠惰な人間である。
老いも若きも、中年も、余命を生きている。
そこに意味づけをしたいのは傲慢というものである。
しかし、しかし、と死なないことがわかったとたん、欲望が頭をもたげる。
また、何かに手を伸ばそうとしている。(実際、新しい炊飯器を買ってしまった)
その手を引っ込めろ、と今の私は思っている。
チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!