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【勝手に現代語訳】三遊亭円朝作『怪談牡丹灯籠』第9話(全22話)

はじめに蛇足

この『怪談牡丹灯籠』の記事をアップロードすると、必ずフォロワーが微減するので、ちょっとビビっておりますが、読んでくださる方もいるので、もう少し更新頻度をあげていこうと思います。

第9話は、孝助が主人公のパートです。8600字あるので、ちょっと長めですが、お楽しみくださいませ。

 飯島の家では妾のお國が、孝助を追い出すか、何かしくじらせるために、いろいろ工夫を凝らしておりました。お國は悪い奴ですので、このことばかり、寝ても覚めても考えています。お殿様が翌日御番にお出向きになったあと、お隣の源次郎がお早うと言いながらやって来ても、お國はしらばっくれています。

「おや、いらっしゃいませ。残暑が引き続き、強いですね。みなさま、御機嫌よろしゅうございますか。こちらは風がよく入りますから、いらっしゃいまし」

源次郎は小声で言います。

「孝助は、ゆうべのことをしゃべりはしないか」

「いいえ、孝助はきっと告げ口をするだろうと思っていましたが、黙っている様子です。お殿様に屋根瓦が落ちて頭へ当り怪我をしたと言ってね。そのとき、わたくしは弓の折で殴られたと言わなければよい、と胸がどきどきしましたが、あのことは何も言いませんでした。言わずにいるのは、おかしいではありませんか」

お國は小声で話していたのに、急にわざと大声を出して言います。

「お暑いこと、こんなに暑くっては、仕方がありません」

すると、また小声にして、話を続けます。

「水道端の相川新五兵衞様の一人娘のお徳様が、うちの草履取りの孝助に恋煩いをしているとさ。まあ、本当に変わり者もいるものですね。馬鹿なお嬢様だよ。あの相川の爺さんが汗をだくだく流しながら、お殿様に願って孝助をくれろ、と頼んだです。お殿様も贔屓の孝助だからあげましょう、と承諾して、相川は帰りました。そうして、今日は相川で結納の取り交わしをなさるそうですよ」

「それじゃあ、よろしい。孝助が相川の家に行ってしまえば、問題はない」

「いえ、水道端の相川へ養子にやるのに、うちのお殿様がお里になるんですよ。そうすると、あいつがこのうちの息子のように振る舞いだすでしょう。草履取りのときでさえ、随分ツンケンした奴でしたから、あちらの養子になれば、きっと意趣返しをするに違いありません。あいつが立ち聞きしたのは違いないのですから。あなた、どうにか孝助を殺してください」

「あいつは剣術ができるから、俺には殺せないよ」

「あなたはなぜ、そんなに剣術がお下手なのかしら」

「いいや、それより、もっとうまい方法がある。相川のお嬢様のうちには相助という若党がいる。お嬢様にたいそう惚れているもんだから、あれをうまく騙して、孝助と喧嘩をさせよう。あとで喧嘩両成敗と、俺の力で相助を追い出せば、伯父さんも義理で孝助を出すに違いない。だが、明日、伯父様と一緒に帰って来ては困る。孝助が一人で先へ帰るようにはできないだろうか」

「それはわけなくできますとも。わたくしがお殿様に『用がありますから先へ帰してくださいまし』と言えば、きっと先へ帰してくださいます。大曲りあたりで待ち伏せて、あいつをボコボコにお殴りなさい」

話を終えると、お國は大声を出して、源次郎に別れを告げます。

「誠に御早々様。さようなら」

源次郎は屋敷に帰るとすぐ男部屋へ行きました。少し愚か者の相助は、のんきに鼻歌を歌っておりました。

「相助、たいそう精が出るのう」

「おや、御次男様、誠に日々お暑いことでございます。今年は格別に暑いですね」

「暑いのう。そちは感心な奴だと常々兄上も褒めていらっしゃる。主人の仕事がなければ、自分の仕事をして、少しも身体に隙のない男だと仰しゃっている。それに手前は国に別段身寄りもないから、当家が里になろう。大したところではないが、相応な侍のうちへ養子にやるつもりだよ」

「恐れ入ります。誠にどうも恐れ入ります。お殿様といい、あなたといい、ふつつかなわたくしにそれほどまでに目をかけてくださり、言葉ではお礼が言いきれません。何と言ったらいいものか。とにかくありがとうございます。ただ、武士になると言っても、私も『いろは』の『い』の字も知らないものだから、誠に困っております」

「貴様も知っている水道端の相川、あそこにお徳という十八ばかりの娘がいるだろう。貴様をあそこの養子に世話をしてやろう、と兄上が仰しゃった」

「これは、本当でございますいか。あれほどのお嬢様は世間にはいません。ほっぺたなどは、ぽっと赤くて、尻などはちんまりとして、あれほど美しいお嬢様は滅多にいません」

「向こうは高が少ないから、若党でも何でもよいから、堅い者なればと言うから、手前ならば、極めてよかろう、とあらまし相談が整ったところ、隣の草履取りの孝助めが胡麻をすったために、縁談が破談となってしまった。孝助が相川の男部屋へ行って、あの相助はいけない奴で、大酒飲みで、酒を飲めば前後不覚、主人の見さかいもなく頭を殴り、女郎を買い、博打を打ち、そのうえ、盗人根性があると言ったもんだから、相川もおまえが嫌になって、話がもつれてしまった。それで、今度はとうとう、孝助が相川の養子になることに決まり、今日結納の取り交わしだとよ。向こうは、草履取りでさえ欲しがるところだから、手前なれば真鍮でも二本さす身だから、きっと、ぴったりだったに違いないのに。孝助は、本当に憎い奴だ」

「何ですと? 孝助が養子になるのですか。憎い奴でございます。人の恋路の邪魔をするなんて。盗人根性があって、おまけに御主人の頭を殴るなんて。いつ、私が御主人の頭を殴りましたか」

「俺に苦情を言っても仕方がないよ」

「残念です。腹が立ちます。孝助が憎い。ただではおかない」

「納得できないなら、我慢することはない。喧嘩しろ、喧嘩しろ」

「喧嘩では孝助には敵いません。あいつに剣術では、到底及びません」

「それじゃ、田中の中間に、喧嘩の亀蔵という身体中傷だらけの奴がいるだろう。あれと藤田の時蔵と二人に鼻薬(賄賂)をやって頼め。貴様と三人で、明日、孝助が相川の屋敷から一人で出て来るところを、大曲りで殴り殺しても構わない。殺したら、川へ投げ捨てろ」

「いや、殺すのは可哀想です。だが、ボコボコに殴ってやりたい。でも、喧嘩したことが知れたら、どうなりますか」

「そうだな。喧嘩をしたことが知れたら、兄上はきっと不届きな奴、相助をいとまにしてしまう、と仰しゃって、暇になるだろう」

「お暇になっては、行き詰まります。よしましょう」

「だがのう、こちらで貴様に暇を出せば、隣でも義理だから孝助に暇を出すに違いない。あいつが暇になれば、相川でも孝助は里がないから養子にもらう必要はない。そのうち、孝助より手前を先へ呼び戻して、相川へ養子にやるつもりだ」

「誠に源次郎様の御親切には恐れ入ります」

相助がそう言うと、源次郎は懐よりお金をいくらか取り出しました。
「金をやるから、亀蔵たちと一杯飲んでこい」

「これは、いや、お金まで。すみません。折角のご配慮ですから、ちょうだいしておきます」

 源次郎と話を終えた相助は、亀蔵と時蔵のところ行き、このことを話すと、二人は面白半分にやっつけろ、と乗り気です。三人で手筈を取り決めました。

 さて、飯島平左衞門はそんなこととは知らず、孝助を供につれ、御番からお帰りになりました。

「殿様、今日は相川様のところへ孝助の結納で行かれるそうですね。少し居間の御用がありますから、孝助は殿様よりお先へお帰しくださいまし」

お國がそう言うと、飯島はうなずきました。

 飯島は「よしよし」と孝助を連れて相川のうちへ参りました。ごく小さい宅です。

「お頼み申します。お頼み申します」

「どれ、これ善蔵や、玄関に取次があるようだ。善蔵、いないか。どこへ行ったんだ」

「あなた、善蔵はお遣いに行かせたではありませんか」

「ああ、俺がすっかり忘れていた。牛込の飯島様がお出でになったのかもしれない。煙草盆へ火を入れて、お茶の用意をしておきな。多分、孝助殿も一緒に来たかもしれないから、お徳にそのことを言いな。これこれ、お前よく支度をしておけ。俺が出迎えよう」
と玄関まで出て参ります。

「これは殿様、だいぶお早く、どうぞ、すぐにお上がり願います。誠にこの通り見苦しいところですが。孝助殿も、どうぞ。ご挨拶はあとでします」

相川はいそいそと一人で喜び、ゴツンと柱に頭をぶつけ、アイタタ、とにかく、こちらへと座敷へ通します。

「さて、残暑が大変厳しいことでございます。また、昨日はお宅まで上がりまして御無理を願ったところ、早速、来てくださり、ありがたく存じます」

「昨日は、お草々を申しました。いかにもお急ぎでしたので、お酒も出さず、お草々申上げました」

「あれから帰りまして娘に申し伝えました。お殿様がご承知の上、孝助殿を婿に取ることに決まって、明日はお殿様お立合の上で、結納の取り交わしになると言いますと、娘は涙を流して喜びました。浮気のようですが、そうではない、お父様を大事に思うから、とは言いながら、今まで御苦労をかけました、と申しますから、早く丈夫にならなければいけない。孝助殿が来るからと申して、すぐに薬を三服立てつけて、飲ませました。それからお粥を二膳半食べました。それから今日は、娘がずっと気分が治って、お父様こんなに見苦しいなりでいては、孝助さまに愛想を尽かされるといけませんからと言うので、化粧をする、婆もお歯黒を付けるやら大変です。わたくしも最早五十五歳ゆえ、早く養子をして楽がしたいものですから、誠に恥じ入った次第でございますが、早速のご理解、誠にありがとうございます」

「あれから孝助に話しましたところ、当人もたいそう喜び、わたくしのような不束者をそれほどまでに大事に思ってくださるとは、冥加至極、神のご加護と申してな。大方、当人も納得した様子でな」

「いやもう、あの人は忠義だから、嫌だったとしても、殿様の仰しゃることには『はい』と言うことを聞きます。あのくらい忠義な人はない。旗下八万騎の中にも、おそらくあれほどの者は一人もおりますまい。娘がそれを見込んだのです。善蔵はまだ帰らないか。これ婆や」

「何でございます」

「お殿様にご挨拶をしないか」

「ご挨拶をしようと思っても、あなたがせかせかしている者だからご挨拶する間もありません。お殿様、ご機嫌様、よういらっしゃいました」

「これは婆や、お徳様が長いあいだ御病気のところ、早速の全快誠におめでたい。お前も心配したろう」

「おかげさまで。わたくしはお嬢様の小さなときから、おそばにいて、気性も知っております。でも、何も仰らず、やっとこのあいだ理由がわかったので殿様に御苦労をかけました。誠にありがとうございます」

「善蔵はまだ帰らないか。長いな。お菓子を持って来い。殿様、御案内の通り、手狭でございますから、お座敷を別にすることもできません。何かちょっと尾頭付きで一献差し上げたいが…。孝助殿も一緒に今日は無礼講で、御家来でなく、どうか御同席でお酒をあげたい。孝助はわたくしが出迎えます」

「何、わたくしが呼びましょう」

「何、あれはわたくしの大事な婿で、死水を取ってもらう大事な養子だから」

相川は立ち上がり、孝助を玄関まで出迎えに行きます。

「孝助殿、誠によくいらっしゃいました。いつも健やかに御奉公、今日は無礼講で、お殿様のそばでお酒、いや、なに酒は飲めないから御膳をちょっとあげたい」

「これは相川様、御機嫌よろしゅうございますね。さきほど、お嬢様は調子が悪いと伺いました。少しはよろしくなりましたか」

「何を言うのだ。お前の女房をお嬢様だの、およろしいもないものだ」

「そんなことを言うと孝助が間を悪がります。孝助、折角のご厚意なのだから、こちらへ来い」

「なるほど、立派な男で、なかなかだ。さて、昨日はお殿様にご無理を願い、早速承知してくださいましたが、高は少ないし、娘は不束者で、舅は知っての通りの粗忽者、実に何の取り柄もない。娘がお前でなければならない、と煩うまでに思い詰めたと言うと、浮気なようだがそうではない。あれが七歳のとき、母親が死んで、それから十八まで私が育てた者だから、あれも一人の親だと大事に思ってくれている。お前の心がけのよい、優しく忠義なところを見て、思い詰め、病となったほどだ。どうか、あんな奴でも見捨てずに可愛がってやっておくれ。私はすぐにちょこちょこと隠居して、隅の方へ引っ込むつもりだ。時々少しずつの小遣いをくれれば、それでいい。それから、ほかに何もお前に譲る物はないが、藤四郎吉光の脇差しがある。造りは野暮だが、それだけは私の家に付いた物だからお前に譲るつもりだ。お前は出世できる器量だ」

「そう言うと孝助が困るよ。孝助も誠にありがたいことだが、少し仔細があって、今年いっぱい私のそばで奉公したいというのが当人の望みなんだ。どうか今年だけは、私の手元に置いて、来年の二月に婚礼をすることにいたしたい。もっとも結納だけは今日のうちにいたしておきます」

「へい、来年の二月ですね。今月が七月だから、八か月も先か。八か月経ったら、質物でも流れてしまいます。うーん、ちょっと長いな」

「それは深いわけがあってのことで」

「なるほど、ああ感服だ」

「おわかりになりましたか」

「娘が孝助に惚れるのも、もっともだ。娘より私が先に惚れた。それはこういうことではないですか。今年いっぱいは、あなたのおそばで剣術を習い、免許でも取るような腕になるつもりなのだ。これはそうでなくてはならない。孝助殿は利巧で器量もあるが、高も少なく、禄のあるところへ養子に来るのだから土産がなくてはおかしいと言うので、免許か目録の書付けを握って来る気だろう。それに違いない。ああ感服、自分を卑下したところが偉いねえ」

「殿様、わたくしはちょっとお屋敷へ帰って参ります」

「御用事があるのは仕方がないが、少し待っておくれ。何もないがちょっと御膳を上げます。善蔵まだか、長いのう。だが、孝助殿、戻って来られないかもしれないから、ちょっと奥の六畳へ行って徳に逢ってやっておくれ。徳が今日は化粧をして待っていたのだから、お前に逢わないと、おしろいが無駄になってしまう」

「そう仰しゃると、孝助が間を悪がります」

「とにかく、あれだ。どうかちょっと会わせて」

「孝助、ああ仰しゃるものだから、ちょっとお嬢様にお目通りして参れ。まだ、手前は飯島の家来の孝助だ。相川のお嬢様のところへお見舞いに行くのだ。何をうじうじしている? お嬢様の御病気を窺って参れ」

飯島にそう言われ孝助は間を悪がってへいへい言っていると、婆やが案内をします。

「こちらへどうぞ。御案内いたします」

そして、孝助はお徳の部屋へ入り、挨拶をします。

「これはお嬢様、長らく御不快のところ、お体の調子はいかがでございますか。お見舞いを申し上げます」

「孝助様、どうかお目を掛けられてくださいまし。お嬢様、孝助様がいらっしゃいましたよ。あれまあ、顔が真っ赤になって、今まであなたがご苦労をなさったお方じゃありませんか。孝助様がお出でになったら、恨みを言うと仰っていたのに、ただただ真っ赤になって、お尻でご挨拶なさってはいけませんよ」

「お暇を申します」
孝助はお徳への挨拶を終わらせると、主人の飯島のところへ参ります。

「一旦、御用を終わらせて、早く済みましたら、またこちらに上がります」

「困ったねえ。暗くなったから、何があるかわからんよ」

「何かって、何ですか」

「何さ、提灯はあるかい」

「提灯は持っております」

「あとは何がないと困るかねえ。何さ、ロウソクがあるかね。何、ある? そんなら、よろしい」

孝助はいとまごいをして、相川の邸を出て、大曲りの方を通れば、前に申した三人が待ち伏せをしております。孝助の運は強く、隆慶橋を渡り、軽子坂から邸へ帰ってきました。

「ただいま、帰りました」

孝助がそう言うからお國は驚きました。今頃、孝助が大曲りのあたりで、三人の中間に真鍮巻の木刀で殴られ、殺されているはずなのに、普段通りに帰ってきたのです。

「おやおや、どうして帰ったんだい」

「あなたさまがお居間の御用があるから帰れと仰ったから、帰って参りました」

「どこから、どう帰ってきたんだい?」

「水道端を出て隆慶橋を渡り、軽子坂を上がって、帰ってきました」

「そうか、わたしゃ、また今日は相川様がお前を引き留めて、帰らないと思っていたから、御用は済ませてしまったよ。お前はすぐお殿様のお迎いに行っておくれ。そして、もし、お前がお迎えに行かなかったら、そのうちにお帰りになるかもしれないよ。お前、ほかの道を行って、途中で会えないといけない。お殿様はいつも大曲りの方をお通りになるから、あっちの方からゆけば途中で殿様にお目にかかるかもしれない。すぐに行っておくれ」

「へい、そんなら帰らなければよかった」

孝助は愚痴を言いながら、再び屋敷を出ます。大曲りへ通りかかると、中間三人は手に手に真鍮巻の木刀をひねくり、待ちあぐんでいました。来ると思っていた方角ではなく、逆の道から花菱の提灯を提げた孝助がやって来るのを見つけたのです。確かに孝助であると確認して、相助はずっと進みます。

「やい、待て」

「誰だ? 相助じゃねえか」

「おお、相助だ。貴様と喧嘩しょうと思って待っていたのだ」

「だしぬけに、何を言うのだ。貴様と喧嘩することは何もねえ」

「おのれ、相川様へ胡麻をすりやがって。俺が養子になる邪魔をした。そればかりでなく俺のことを盗人根性があると言ったらしいな。どういうわけで胡麻をすって、手前があのお嬢様のところへ養子にゆこうとする? 憎い奴だ。ほかのこととは違う。盗人根性があると言ったから喧嘩するのだ。覚悟しろ」

「何の話をしているのか、さっぱりわからない」

孝助と相助が言い争っている横から、亀蔵が真鍮巻の木刀を持って、いきなり孝助の持っている提灯を叩き落とします。提灯は地面に落ちて、燃え上がっていきます。

「手前は新参者の癖に、お殿様のお気に入りを鼻にかけ、大手を振って歩きやがる。貴様は気に入らねえ奴だ。この畜生め」

亀蔵はそう言いながら孝助の胸ぐらを掴みます。孝助は、こいつらは徒党を組んでいるのではないか、と察します。

向こうを見ると、側溝の縁にもう一人しゃがんでいます。孝助はかねて殿様より教わったことを思い出していました。

敵が複数いるときは、慌てると怪我をする。寝て働くがいいと思い、胸ぐらを取られながら、亀蔵の油断を見て前袋に手がかかるが早いか、孝助は自分の体を仰向けにして寝転び、右の足を上げて亀蔵の睾丸のあたりを蹴り返しました。亀蔵は宙返りをして、ドブの縁へ投げつけられました。左の方から時蔵、相助が打ってかかるのを、孝助はヒラリとかわし、腰に差したる真鍮巻の木刀で相助の尻のあたりをドンと打ちます。相助はぶたれて、のぼせ上がるほどの痛みを感じ、眼も眩み、足がもつれ、ひょろひょろと逃げ出し、ドブへ駆け込みます。時蔵もぶたれて、同じく溝へ落ちます。

「やい、何をしやがるのだ。さあ、どいつもこいつも、かかって来い。飯島の家来には死んだ者は一匹もいねえぞ。お印物の提灯を燃やしてしまって、お殿様に申し訳が立たない」
孝助が叫んでいると、飯島の殿様が現れました。

「まあまあ、もうよろしい。心配するな」

「へい、これは殿様どうしてここへ? わたくしがこんなに喧嘩をしたのを御覧になっていたのですか。これはわたしのしくじりになるのでしょうか」

「相川の方も用事が済んだから、戻ってきたところ、この騒ぎだ。憎い奴らだと思って見ていて手前が負けそうなら、俺が出て加勢をしようと思っていたが、貴様の力で追い散らすことができた。まず、よかった。焼け落ちた提灯を持って、供をして参れ」

主従連れ立って、屋敷へお帰りになりますと、お國は二度びっくりしましたが、素知らぬ顔でこの晩を過ごしました。

翌朝になると隣の源次郎が何事もなかったかのようにやってまいります。

「伯父様、おはようございます」

「いや、大分、早いのう」

「伯父様、昨晩、大曲りで御当家の孝助と私共の相助と喧嘩を致し、相助はさんざんに打たれ、やっとのことで逃げ帰りましたが、兄上がたいそうお怒りになり、けしからん奴だ、年甲斐もないと申して、すぐに暇を出しました。ついては、喧嘩両成敗のたとえの通り、御当家の孝助もお暇になりましょう。家来の身分として、わたくしの遺恨をもって、喧嘩などをするとは、もってのほかのことですから、兄の名代でちょっと念のため、お届けにまいりました」

「それはよろしい。昨晩の孝助は悪くはないのだ。孝助が私の供をして提灯を持って大曲りへかると、田中の亀蔵、藤田の時蔵、おうちの相助の三人がいきなりに孝助に殴りかかってきて、行く手を妨げるのみならず、提灯を打ち落とし、印物を燃やしましたから、憎い奴、手打ちにしようと思ったが、隣家の中間を切るでもないと我慢をしているうちに、孝助が怒って木刀で打ち散らしたのだから、昨晩の孝助は少しも悪くはない。もし、孝助に遺恨があるならば、なぜ飯島に届けなかった? 行き先を妨げて、けしからんことだ。相助の暇になるは当たり前だ。あれには暇を出すのがよろしい。あいつを置いておくのはよろしくない、と兄様に申し上げなさい。これから田中、藤田の両家へも廻文を出して、時蔵、亀蔵も暇を出させるつもりだ」

飯島がそう言い放ち、孝助ばかりが残ることになりました。源次郎も当てが外れ、がっくり肩を落としています。挨拶もできない始末で、何も言うことができず、邸へ帰りました。


◆場面

飯島家→相川家→隆慶橋(神田川、飯田橋駅付近)→飯島家→大曲がり→飯島家

◆登場人物

・飯島平左衞門…孝助の主人
・お國…飯島平左衞門の妾。孝助殺しを企てている
・孝助…飯島家の草履取り
・相川新五兵衞…お徳の父親。孝助を養子にしたいと飯島に頼みにやって来た。そそっかしい人
・お徳…相川新五兵衞の娘。孝介に恋をしている
・相助…飯島家の隣家の奉公人。お國と源次郎に孝助にお徳を盗られたと思い込まされる

◆感想と解説

この章は場面転換もあり、孝助があちこちへ移動し、アクションシーンもあり、動きが多いのが特徴。相川家の人たちがコメディ担当で、孝助がまったく婿入りに興味を持っていないところが、ちょっとおかしくもあり、お徳の立場を考えると、切なくなる場面でもあります。

第10話へ続きます!
お露と新三郎のパートに戻ります。

チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!