また、振り出しに戻る
子どもの頃、すごろくや人生ゲームでよく遊んでいた。放課後に同級生たちと、盆や正月にいとこたちと楽しんでいた。トランプやドンジャラでは勝ちたかったが、ボードゲームではそれほど勝敗を気にしなかった。それはやはり、賽を振る、ルーレットを回す、という行為の偶然性、勝ち負けは確率に過ぎない、と子どもながらに理解していたのかもしれない。
「振り出しに戻る」というマス目は残酷である。ゲームだと徒労感はないが、人生においては死活問題である。
前職を辞めてから、もう少しで一年になる。冷静に考えられるようになったせいか、その業界周辺の仕事には戻りたくない、という気持ちが日増しに強くなってきた。実は、前の職場は、業界の中では給与水準も低くなかったし、女性の平均年収を上回る給料はもらえていたのだ。(女性の平均年収が低すぎるという問題も、もちろんある)ただ、職場環境はすごく悪かった。
これから、わたしが同じ業界で転職活動をするとなると、「小規模で牧歌的で給与が悪い」みたいな職場を目標にして探すことになる。
うーん、夢がない。なさすぎる。
そのような職場では、役割分担が曖昧で、あらゆる仕事を全員で負担し、残業と休日出勤も当たり前で、倒産の危機に見舞われることもあるだろう。運悪く倒産の憂き目にあい、五十代半ばで再び転職市場に放り出されることもあり得る。わたしは、そのダメージに耐えられるだろうか。失望の度合いは、今の比ではないのではないか。
もちろん、noteで頑張っていらっしゃる方の記事は読ませていただいているし、そのときになれば、頑張れるとも思う。(五十代まで生きているかどうかもわからないのだけれど)
そこで、この一年とある資格の勉強やFP3級の勉強を始めた。今は、士業と呼ばれる資格に挑戦しようかな、などと考えている。それは持てるカードを増やしたい、という欲求である。キャリアチェンジするためには、履歴書と職務経歴書以外の保証書のようなものが必要だとしみじみ感じている。
長らく金融機関で働く知人も、「資格がなかったら、自分がその業務ができると証明をすることはできない」とはっきり言っていて驚いたことがある。大企業で働いても、転職するとなったら、自分の価値を認めてもらうのは難しい、と考えているのだ。いやあ、人生、本当に厳しいわね。
前職の業界には10年いた。10年いて、得たものと失ったものがあり、まあトントンかな、というところである。働いているときは、この仕事をとにかく続けよう。ひとつのことを続けていたら何とかなるはずだ、と自分に言い聞かせていた。
でも、また放逐されることを考えると、恐ろしい。あんな気持ちを二度と味わいたくはない。履歴書に一貫性を持たせたり、転職回数を少なくすることより、専門性のある仕事がしたい。前職も専門的な仕事ではあったが、不安定な仕事だった。そのような安定性のない仕事は「仕事」と呼べるものなのだろうか。わたしの命は一瞬で消える花火ではないのだ。
そして、職種や業界の脆弱性というものは、いち個人の力で何とかできるものではない。わたしだけ生き残ればいい、という考え方も得策ではない。裾野が広がらない職種は縮小が繰り返され、いずれ消滅する。給与が低くて、人の使い捨ては当たり前で、若い人たちが入ってこない(入ってくることができない)場所に、執着する必要があるのだろうか。これ以上、自分で自分の首を絞めなくともよいではないか。
安定しているから「公務員」になりたい、という小学生のような気持ちとは、少し違う。自分を犠牲にしたり、無理をすることを前提に生活を組み立てることにうんざりしている。もちろん、「安定」などというものが幻想だということもわかっている。
「本当に捨てていいものなのか」と後ろ髪を引かれる思いもある。そして、自分のリセット願望の強さ、我の強さがよくないことである、という風にも感じている。穏便に穏当に安穏と暮らしていればよかったのにね、と。
これは「夢から目が醒めた」「薬が切れた」ということなのかもしれない。これまで痛みを麻痺させて、興奮状態だったのが、素面になってしまった。夢を見続けるには体力が要る。
会社が倒産しても、失業しても、汎用性と専門性の高い仕事をしていれば、再就職も独立も難しくないはず。
仕切り直しである。もう一度、キャリアを組み立てていく。もちろん、十八歳の就労経験のないところまで戻るわけではないので、時間短縮やスキップはできるはず。これまでのキャリアを捨てるわけではない。というか、キャリアとは「人生」なので、捨てることすらできない。
はあ、疲れる。
でも、そのような気力が戻ってきたことに安堵もしている。去年の今頃は、毎日鬱々として寝込んでいた。正直、出口は見えず、ただうずくまっているような状態だった。
人は変わるし、変われる。「時間がお薬」というのは絶対的に正しいと実感している。あの頃の頭の重さ、鈍痛は、二度と思い出しくない。
そして、自分自身を殺して環境に適応するより、思い切って環境を変えてしまったほうが早い。人は変化を嫌ったり、自分が好んでいたものを客観的に見ることができなかったりする。不合理で、道理に合わない行動を取ってしまうことも、少なくない。自分を傷つけた恋人に執着したり、自分を大事にしてくれない職場で働き続けようとしてしまう。
大丈夫、きっと、わたしも、あたなも、新しい場所でやっていける。今までクソみたいな会社で頑張っていたのだから。
ほんの少しの勇気と、体力と気力があれば、新たな一歩を踏み出せるはずだ。
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