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勝手に現代語訳、はじめます!

いくつか企んでいることがある。もちろん、合法的なもので、物騒なものではない。

「企み」とは、自分だけのプロジェクト、という意味だ。これを考えているときは、結構ワクワクする。やり始めると、しんどくなってくるので、「ワクワク」や「新鮮さ」を持続させるのは本当に難しい。

さて、わたしが今やってみたいことの第一弾として近世文学と近代文学の現代語訳だ。夏目漱石(1867-1916)や芥川龍之介(1892-1927)あたりは、現代語なので現代語訳は必要ない。

しかし、江戸時代の文献は読めそうで読めないことも多いと思う。井原西鶴や上田秋成なんて、その代表格だ。

近世と近代の狭間にいる樋口一葉や二葉亭四迷も、読みにくい。なかなか意味が頭に入ってこない。これはとても「もったいない」と思っている。

もっとカジュアルに古典文学に触れ、サクッと吸収できれば、それに越したことはない。苦労なんかしなくていい。そこで苦労を強いると、現代人は嫌になってしまう。

近世文学(江戸時代の文学)は、過去の日本文学はもちろんのこと、中国文学の古典の影響が色濃い。そもそも、平安時代の文学などが中国の古典から影響を受けまくっているので、当然そうなる。そして、近代文学は、近世文学までの流れと西洋文学の影響がミックスされる。

作品解説を読めば「この作品は、〇〇の影響を受け書かれた」とたいてい書いてある。みんなオリジナルにこだわるが、完全にオリジナルな作品なんて、この世に存在しない。

ルーツとなる作品に触れず、あるいは何もわからず、あれこれ批評しても、意味のないことがある。基礎教養をふまえて、新しい作品を生み出す。これを蔑ろにしてはいけない。

海外の映画を観ていると、そのあたりの訓練を徹底的にやっている感じがすごくする。韓国のエンタメ業界なんて、科挙の試験のように、古今東西のエンタメを分析しまくった結果、今の成功があるのだろう。勤勉さを疎んじるのはよくない。

『日本の思想』で丸山真男が指摘したとおり、日本はあらゆるところで、「タコツボ文化」化していると思う。いまだにそれは解消されていない。ジャンルという言葉に騙されてはいけない。ただ、怠慢なだけだと思う。

タコツボ文化とは
政治学者丸山真男(まさお)が『日本の思想』(1961)で、ササラ文化と対比して提唱した概念。共通の根元から分化した多くの細枝をもつ竹のササラ(簓)とは違い、タコツボは、それぞれに孤立した壺(つぼ)が1本の綱で並列的に連なっているにすぎない。日本の学問、文化や社会組織は、欧米のそれと比較するとタコツボ型であるという。共通の根を切り捨てた形で専門が分かれ、それぞれ仲間集団をつくり、相互間の意志疎通が困難だとする。[濱口恵俊]丸山真男著『日本の思想』(岩波新書)

コトバンクより引用

日本にも、知の巨人と呼ばれる人は、何人かいるが、彼らが前提としている教養と背景にある知識が、一致している感じが全然しないのだ。

もし、ジャレド・ダイアモンドとユヴァル・ノア・ハラリが、論争になったとしても、前提となる先行研究や基礎教養の部分は一致しているのではないだろうか。あるグループの成員が、背景知識を共有できていることが、まずすごい。

「タコツボ文化」だと、うちはうち、よそはよそ、で済んでしまう。誰かに守られているうちはそれでいいが、廃れると、すぐに跡形もなく消え去りそうだ。

話が逸れてしまったが、要するに、文化の連続性を軽んじてはいけないのだが、なかなか体系的に学べていない歯がゆさがある。

そして、近世文学と近代文学をもうちょっと深く知りたいというのもある。落語をもっと理解したい。そのためには、ただ読むだけでなく、現代語に翻訳することで、より理解を深められるのではないか、と思っている。テクストと向かい合うこと。それを真剣にやってみたい。

最初に取り組んだのは、三遊亭圓朝(1839-1900)の『怪談牡丹灯籠』である。1860年頃の作品なので、160年近く前の作品だ。結構、時間が経っているではないか。

理由は、大学生時代に摘み食いしただけで、通読はできなかった、という苦い思い出があったからだ。なぜかというと、表記でひっかかり、途中で読むのが面倒くさくなってしまった。

言文一致運動当時の表記は、今のようにルールがなく、統一されていないので、内容は平易なのに、読むのに時間がかかる。(そもそも、落語は江戸の庶民の娯楽なので、難解なはずはないのである)

しかし、三遊亭圓朝の『怪談牡丹灯籠』こそが、言文一致運動に与えた影響が最も大きく、現代日本語の礎とも言われている。(文学史的には、山田美妙や二葉亭四迷の名前が先に上がるのかもしれないが)

教養のある人は、「別に現代語訳なんかなくても、読めるでしょう」と鼻で笑うかもしれない。それも、わかっている。でもさ、わたしのように興味があっても挫折する人はいるのだし、令和に生きる人間が、ちょっと注釈を入れたり、表記を整えるだけで、すらすら読めるんだったら、そっちのほうがいいじゃない。

わたしは、これをnoteでやることで、通勤、通学中の人にサクッと読んでもらえる機会になるのではないかと思っている。そして、これらの作品はすべて著作権が切れており、誰かに許可を取る必要もない。こういう「遊び」をみんなやればいいとも思っている。コナン・ドイルだって、ポーだって、著作権は切れているのだから、翻訳してウェブで発表するのは、何も問題がない。『若草物語』や『赤毛のアン』の翻訳に挑戦したら、きっと楽しいだろうな、と思う。

そういうわけで、勝手に現代語訳シリーズと銘打って『怪談牡丹灯籠』の現代語訳を少しずつアップしていきたいと思う。なるべく原文に忠実に表記を整え、改変はしていない。ただ、主語を付け加えたり、まわりくどいところはカットしたりした。あくまで趣味でやっているものなので、誤訳もあるだろうけれど、苦情は受け付けない。

「勝手に現代語訳」というのは、みうらじゅんと安齋肇の勝手に観光協会に影響されたものだが、わたしのは、さほど、かかっていない(シャレになっていない)。でも、通称KKK(勝手に観光協会)も、今はそんなに笑えない。これも時代の流れなのかしら。

実は、この作業を2022年1月から始め、ちょこちょこ進めていた。もう、4か月も経過してしまっている。ようやく、八割程度、手を入れることができたので、推敲と修正をしつつ、発表をしていきたいと思う。

まあ、オリジナルは偉大な圓朝の作品なので、完成しているといえば、すでに完璧なものが存在しているので、自分が余計なことをしているのではなかろうか、という疑念は常に拭えなかったが、せっかく時間を割いて作業したので、発表しちゃうよ。

一文ずつ読んでいくことで、テクストと向き合うことはできた。まず、構成の巧みさに驚いた。そして、これを15夜の連続高座で披露していた円朝の体力のすごさ、そして知力に驚嘆している。


そんわけで、「勝手に現代語訳ってなんやねん」と思う人もいるだろうと、思い、手始めに、短い作品の茗荷(茗荷宿)をご紹介。

すぐに読めてしまうので、お時間のない方も、どうぞ!

【勝手に現代語訳】怪談牡丹燈籠

マガジンにまとめているので、こちらからどうぞ!

チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!