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#映画感想文280『福田村事件』(2023)

映画『福田村事件』(2023)を映画館で観てきた。

監督は森達也、脚本は佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦、出演は井浦新、田中麗奈、永山瑛太、東出昌大、コムアイ、木竜麻生、水道橋博士、ピエール瀧、豊原功補、柄本明。

2023年製作、137分、日本映画。

本作は1923年の関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件と関連して起きた福田村事件を描いている。

福田村事件とは、香川県から来た薬の行商15名のうち、9名が千葉県福田村で朝鮮人と間違われて殺されてしまった事件である。

大地震が起きたことによる混乱が事件の発端であることは間違いない。しかし、戦時下の閉塞感、社会全体の空気として差別意識があったことも無関係ではない。「朝鮮人が放火している」「輪姦事件が起きた」「井戸に毒を撒いた」などのデマが飛び交い、みな口々に「怖い怖い」と言いながら、被害者であるかのようにふるまっているのだが、あれが現実だったのだろう。朝鮮半島を植民地化して収奪と搾取した加害者であるという自覚があるからこそ、当時の日本人は被害者の復讐に脅えていた。復讐されても当然だという意識があり、彼らがいつ反撃に出るやもしれぬと気が気でなかったに違いない。

ただ、この被害者と加害者の関係性はそう簡単に反転するものではない。アメリカ人はネイティブアメリカン、奴隷船で連れてきた黒人たち、日本人、朝鮮人、ベトナム人、イラク人、アフガニスタン人を差別しながらも、恐れているかのように見えるときがある。加害者は自分が加害者であることを知っている。

そして、香川県から薬の行商をせざるを得なかった被差別部落民の彼らは、日本のマジョリティから穢れを背負わされた人々でもある。天皇制と彼らは繋がっており、また普通の人々が自分より下層階級の人間がいることで溜飲を下げていたという側面もある。そして、その差別は令和の今日も続いている。

このような事件が映画化され、学ぶ機会を得られたことは喜ばしいことだと思う。残念なことに日本の政治家には歴史修正主義者も数多くいるので、市民が動くしかない。

ただ、映画として疑問に思った点は、登場する女性たちがセックスに問題を抱えており、執着しているかのように見える点だ。確かに、戦時下で娯楽もなく、産めよ増やせよの時代で、セックスが一大時であることはわかるのだが、女性だってそれだけで生きているわけではあるまい。島村咲江役のコムアイの表情やたたずまい、セリフ回しも、全編素晴らしかったのだが、会合の場で「さみしくなっちゃいけないの」と芝居じみたナルシシズムまでも披露させられているのは、正直興醒めだった。

利根川で船頭をする田中倉蔵を演じる東出昌大は、彼自身のプライベートの状況と役柄が重なっており、そこも見事だった。彼の駄目な男の色気は、他の追随を許さない。みんな彼の下半身のだらしなさを責めたが、多くの女性は彼を前にしたら冷静でいられなくなるのかもしれない。そのような魅力がスクリーンからも出ていた。

香川の行商の長である沼部新介を演じた永山瑛太のまなざしは、リーダーとしてみんなを引っ張り守らなければならない、という責任感にあふれており、慈愛に満ちた表情、被差別部落民への差別に苛立つ姿が、とてもよかった。「朝鮮人だったら殺してもええんか」という言葉は、魂の叫びでもあっただろう。

澤田智一(井浦新)と妻の静子(田中麗奈)は、良くも悪くも離れられない夫婦で、この夫婦の関係性のバランスの悪さが、味わいでもあると思う。

水道橋博士のインテリや金持ちに劣等感を抱えた軍人の長谷川もすごかった。そして、村長でありながら力のない田向を演じた豊原功補が若い女性の新聞記者に「村社会で生きていけなくなるから、事件の記事を書かないでくれ」と泣いて懇願する姿のみっともなさもよかった。

福田村の人たちが香川の言葉を聞き、拒否反応を示す場面も興味深かった。観客であるわたしはどちらの言葉も、方言のバリエーションとして、意味を理解できるのだが、福田村の人たちは自分たちと違う言葉だとパニックに陥る。情報洪水を疎ましく思うこともあるが、方言が漂白されつつあることも知っているが、さまざまなイントネーションをある程度、わかっている観客を想定して作られている。当時の福田村の人々よりわたしが無知ではないことは救いになるのだろうか。

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