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#読書感想文 安部公房(1982)『箱男』

安部公房の『箱男』を読了した。1982年10月25日に出版された新潮文庫で、単行本は1973年3月に出版されている。

箱男とはその名の通り、段ボール箱にすっぽり入って生活している人である。ただ、箱男が誰なのかは、よくわからない。

「見ること」「見られること」といった視線自体がモチーフとなっており、途中から、「書くこと」「書かれること」といった主体と客体の話になっていく。わたしたちはテクストを読み、テクストは読まれている。

箱男は箱の中に入ることで、他者の視線を遮断できたと思っているが、実のところ、誰に見られているかわからない状態を招いており、それは頭隠して尻隠さずといった状態に近いような気もする。

そして、女性の身体を執拗に見ており、また女性から見られることに対する執着も描かれている。安部公房の女性描写は、まさに「肉慾」であり、女性の主体性や人格はあまり認められない。

この小説自体が概念的なものを具現化しよう、という試みであるため、非常に難解であるし、夢のつじつまが合わないのと、よく似ている。

解説では「フィクションの熱風(p.246)」などという言葉でまとめられているが、断片的なイメージの連続といった印象を持った。一貫性をもって、ひとつにまとめようという意思は感じられない。

ただ、安部公房の文体そのものは平常運転であり、自嘲気味で皮肉っぽい孤独が続いていく。

社会や世間といったものから逃れたい、脱出したい、という願望は、『砂の女』『方舟さくら丸』でも描かれていた。安部公房が疎んでいるのは「日常」ではなく、社会の仕組みやシステムそのものなのだろう。ゆえに私小説的な視野の狭さからは解放され、広がりの中にある狭さや辺境、外れが描かれている。

文学理論はあまり好きではないのだが、安部公房は「空間」を象徴的に描いている。『箱男』でいえば、段ボールの中、『砂の女』は砂の中、『方舟さくら丸』は核シェルターである。ある種の監禁状態、あるいは閉ざされた空間と外界の対立がある。

ひたすら社会から承認されることを願う人間もいれば、社会からの離脱を試みようとする人間もいる。実のところ、後者のほうが、よほど難しいのではないか。人間は社会的な動物と言われるが、むしろ、社会の中でしか生きられないようにできている。そのことに未だに驚くし、隠遁願望や失踪願望を抱えているのは安部公房の登場人物だけではないとも思う。


ほかの安部公房の著作に関する読書感想文も、よろしかったらどうぞ。

これから、『壁』を再読する予定である。読書にも勢いは必要。

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