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安部公房(1991)『カンガルー・ノート』の読書感想文
大学時代、安部公房の『壁』と『砂の女』を読んで、うわさどおり、予想どおり「ああ、天才だな」と生意気にも思った記憶がある。
その勢いで、ほかの作品もどんどん読んでいけばいいのに、その当時の私は「天才であることはわかった。放っておこう!」と安部公房から離れてしまった。なぜ、そう考えたのかは、はっきりとは覚えていないのだが、心残りではあった。安部公房の天才ぶりを確かめずに、死ぬのはよくない。
というわけで、2020年10月より、安部公房強化月間を開始した次第である。
今回、通読したのは『カンガルー・ノート』という新潮社から1991年12月に発行された長編小説で、安部公房の享年は1993年である。
ある朝、文具会社に勤める男のすねに「かいわれ大根」が生えてきて、男が途方に暮れ、右往左往しながら、旅をする物語である。
カフカの『変身』のような作品をイメージする人もいるかもしれないが、描かれるのは異形の者の悲哀ではなく、自分自身が異形であると思い込んでいる人間の夢である。
夢であるため、つながりがあるようでなかったり、断片的な場面が展開していく。主人公の一人称であるため、その視点は一貫しているのだが、つながっているようで、つながっていない。
支離滅裂でとりとめのない夢、といったら、かいわれ大根男がかわいそうな気がする。しかし、この男の話を真正面から聞いて、信じてはいけない。読み手は、話半分で、彼の旅に付き合うことになる。
この作品が安部公房の最後の長編だという。新潮文庫の解説はドナルド・キーンである。
そのドナルド・キーンも、解説で「灰色の小動物の群れが何を象徴するのかわからない」と正直に述べている。
私も今回この小説がよくわからなかったのだが、おそらく、よくわからない感覚、手応えのなさを楽しむための作品なのだと思われる。
死ぬことを予期していた安部公房は、作品に意味や意義などを付与することを敢然と拒否したのかもしれない。
ただ、日本語という言語を媒介して、安部公房の夢が、私の脳で展開されたのは確かな事実である。(私の脳内劇場が不出来であることは間違いないのだが)
「人間って、一度死んだら、二度死ねないんだ」
「当然だろう、地獄で自殺できたら、あの世がなくなってしまう」
安部公房が頭で描いたイメージが、(正確さには欠けるだろうが)読者の頭の中で再生されていく。読書とは、本来そういうものであったということを思い出す。
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