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リソースの配分を考える その2

前回の記事はこちら。

体力は有限であるが、フルタイムの会社員(正社員)をやっていたら、それをこなすのに精一杯で、創作活動なんて全然できなかった。9年間、紆余曲折あったが、何もできていない。

残念ながら、わたしは富豪ではないので、働かなければならない。社畜のまま人生を終えそうなところで、運が良いのか悪いのか、失業をした。

一旦、仕切り直し、ということで、自分の体力、時間の使い方について考えている。

まず、創作活動は、朝すべきだ。というより、しっかり睡眠をとり、思考がクリアになった状態で取り組むべきなのだろう。

たとえば、村上春樹は、朝執筆して、それからランニングをするのだとインタビューで答えていたと思う。逆はないのだ。ランニングをして体力が消耗してから、書くなんてことは絶対にしないだろう。

村上氏は、長編小説を書いているときは、毎日朝4時に起きて即、パソコンの前に座り、原稿を書きはじめ、4~5時間、ひたすら執筆します。この原稿の量は、かならず原稿用紙10枚程度と決めていて、短くても長くてもいけません。
PRESIDENT ONLINEより引用

頭が疲れて、デスクワークで凝り固まった体をほぐすために、ランニングをするのだと思われる。早朝に集中できるのもわかるし、習慣化も、重要だ。

「疲労困憊の状態だからこそ、素晴らしい作品ができるんだよね」なんて人にはお目にかかったことがない。身も心も疲れていたら、インプットもアウトプットもできるわけがない。

というわけで、わたしはこれから朝4時に起きて、3時間の執筆をしようかと思う。ハルキ・ムラカミの模倣犯になって、どこまでゆけるか。ランニングはしないと思うが、ちょいとお暇をいただいたので、有効活用してみたい。

(子ども時代の夏休みのように計画倒れにならないように気を付けたい)

無職になるので、この機会に個人プロジェクトとして頑張ってみたい。どれだけ書けるか。書きたいと思いながら書けずに死ぬより、書いたけれど、うまくいかずに死んだほうがよい。

わたしは自分にとって、書くことが何を意味するのかは、いまだによくわかっていない。書かずにはいられない、なんてことはない。(つうか、9年間、書かなくても問題なかったんだから)ただ、常に焦燥感というか、サボっていることへの罪悪感があった。誰に強制されたことでもないのだけれど、頭の奥でひっかかっている。

noteに書く記事は、インプットとアウトプットを兼ねており、普段のエクササイズという感じである。これはこれで続けていきたい。

物語を「書く」ためには集中力と自己陶酔感が必要である。自己陶酔と書くと、ナルシシズムを連想されると思うが、それより、その世界に入り込むことが必要なのだ。

仕事で疲れ切った体に鞭を打ち、創作することはできず、結局、夢を見て、朝が来るという日々を繰り返していた。間違ったことはしていないのだけれど、いまだに自分の身体と精神をコントロールできないことに忸怩たる思いである。

まあ、人の中で生きていくというのは、そういうことなのだろう。

頼まれてもいない仕事、お金にもならないことをどこまで頑張れるか。

ただ、人間には誰しも創作衝動があると思う。ラスコーの洞窟の壁画にはギャラなんて発生していないだろう。描きたいから描く。これが最強の動機付けだ。それに子どもの頃は、ただ書きたいだけで書いていたのだから、わたしにできないこともないだろう。

とりあえず、行けるところまで行ってみたい。

チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!