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#映画感想文276『ポエトリー アグネスの詩』(2010)

映画『ポエトリー アグネスの詩(原題:Poetry)』の4Kリマスター版を映画館で観てきた。

監督はイ・チャンドン、主演はユン・ジョンヒ。

2010年製作、139分、韓国映画。

主人公のミジャ(ユン・ジョンヒ)は65歳の女性。介護ヘルパーの仕事をして、生活保護を受けながら、孫と古い団地で暮らしている。

冒頭、彼女は病院で腕の痛みを訴えたいのだが、「電気」という言葉が出てこない。すると、医者から認知症を疑われてしまう。しかし、彼女はそのことをそれほど深刻には受け止めていない。釜山に住む娘に電話で報告を済ませると、病院の敷地内で取り乱した母親に遭遇する。どうやら、緊急搬送されてきたのは、孫と同じ学校の同級生の女の子らしい。彼女は、将来のある女の子が川で投身自殺を図ったことに心を痛める。野次馬根性で女の子のことを知っているかどうかを孫に尋ねる。孫は被害者の名前なんて知ってどうするのだと素っ気ない。

言葉が出てこないことに、危機感を覚えていた彼女は地域の文化センターで行われている、1か月の詩の講座に参加することを決める。

そんな彼女ところに、孫の同級生の保護者の男性がやって来る。孫が女の子の自死に関わっていたことが判明する。なんと、その孫を含んだ6人の男子学生が、女の子に性的暴行を加えていたのである。

「子どもたちの未来のために」を合言葉に、加害者男子の父親たち5名は示談に向けて奔走する。生活保護を受けているミジャも金銭的な援助は受けられず、金策をしなければならなくなった。

「背も低いし、大して可愛くもない女の子が被害者だったらしい」「性的暴行は被害者からの告発がなければ警察も調べない」などといった耳を塞ぎたくなるような醜悪なやりとりが、日常会話と同じような、平坦な調子で行われる。父親たちは加害者である息子たちを守ることは当然であると思って疑わない。「死んだ女の子は可哀想だが、生きている子どもたちには未来がある」と平気な顔で言う。どうにも既視感がある光景にぞっとする。

そんなおじさんたちの会話の場から、彼女はそっと離れる。それは認知症だからなのか、聞くに堪えない会話だったからなのか、その理由はわからない。加害者の保護者は「変なおばあさん」として、真面目に取り扱わない。

孫の事件の示談交渉と示談金の金策と、詩の教室、詩の会に通う日々が交互に描かれていく。詩人の先生は「詩を書くとは、日常生活にあるものをよく見ることだ。理解しようと思い、そのものを知ることが詩を描くことにつながる」という。

「見ること」とは、この映画において、大きな意味を持つ。わたしたちは、日々のことを何気なく見ているだけで、本当は見ていない。ましてや、それらを言語化することもない。そんなことをいちいちやっていたら、日が暮れてしまう。しかし、人は日常の中にあるものを「見ること」によって、切り取り、物事を明確にすることができる。それ自体が表現行為となり得る。そして、彼女は詩を描くことを試みていく。

彼女は美しい花々の色を愛で、木漏れ日、夜風に吹かれ、日常生活を観察していく。詩を描こうとしている彼女の向こう側には、犯罪を犯した孫という存在がある。その彼女のさまは、現実逃避をしているようにも見える。

そして、友達のような娘、永遠の友達、とまで表現する娘とのディスコミニケーションがある。娘は、母親に子育てを任せきりで彼女と息子に仕送りすらしていない。娘に何があったかはわからないが、娘は母親としての責任を果たさず、自分の母親に子育てを丸投げをしている。そんな娘を彼女は丸ごと受け入れてしまっている。おそらく、彼女はそのことを娘に直接文句を言ったことはないのだろうし、その問題について話し合った形跡も見られない。「友達のような娘」というのは、実のところ、問題を直視せず、見て見ぬふりしていただけの関係性に過ぎない。(母と娘のあいだには修復不可能な何かがすでに起きたあとなのかもしれないが)

現実を直視せずにやり過ごせばいい、という態度は、そこら中にある。家庭や会社、ノンポリ的な態度。わたしたちは何よりも関係性が壊れてしまうことを恐れている。しかしながら、現実逃避をしたところで、物事は悪化はしても良くなることはない。

ミジャが自死をした女の子の写真を食卓に飾っても、孫は見てみぬふりをして、テレビを見ながら朝食をとる。この現実は自分とは関係がないと言わんばかりの態度に、彼女は落胆を覚える。孫は反省などしていない。別の日は、近所の小さな女の子たちとフラフープに興じている。孫は罪の意識に苛まれたりしていない。時間が過ぎ去り、みんなが忘れてくれるのをひたすら待っている。ミジャはその孫の姿をしかと見ている。彼女は詩を書くことによって「見ること」を始めた人でもある。

「見ること」とは、自分たちの生活の中にある真実と向き合うために必要なことなのだ。

ただ、彼女は孫を助けたいとも思っている。孫がたくさん食べる姿を見ることが自分の幸せだと言って、子育てをしてきた人でもある。彼女は示談金300万ウォンの六分の一である50万ウォンを用立てなければならない。生活保護を受けている彼女にそのような金はないし、娘に相談すらしていない。つまり、孫(息子)の犯罪を娘に伝えることすらできていない。

あるとき、彼女はひらめく。以前、介護ヘルパーとして訪問している老人から、関係を持つことを迫られたことがあった。わざわざバイアグラを飲み、最後のセックスをしたいと懇願する高齢の男を彼女は毅然と拒絶した。しかし、金策するためには、それを利用するしかない。彼女は男にバイアグラを飲ませ、関係を持つ。金をすぐには請求せず、時機を待つ。その点、彼女は狡猾ですらある。ただ、65歳の女性が孫の示談金のために、売春をするという描写には堪えた。しかしながら、このような現実はいくらでもあるような気がしたのだ。

孫の強姦事件の贖いを祖母が売春で穴埋めするという圧倒的な皮肉、すさまじい男性社会(家父長制)を冷ややかに描く監督に腰を抜かしてしまった。

そして、ミジャという女性は、昔、性的被害にあったことがあるのではないかとも思わされた。性犯罪の被害者は自傷行為のような選択をしてしまうことが往々にしてあるからだ。

彼女には二つの動機付けがあった。示談金を支払うことで孫を守ること。示談金を支払うことで、女の子の遺族の手助けをしたい、という気持ちもあった。

彼女は「見ること」を始めて、見て見ぬふりをしてやり過ごすことを「是」とすることができなくなった人である。65歳にしてはじめて、自分の人生に落とし前をつけることを決める。

彼女は詩のサークルで知り合った、下ネタを言う下品な、それでいて正義感が強くて地方に飛ばされた刑事に孫を逮捕してもらう。加害者の祖母が告発を行う。その選択と意志の強さ。

そうやって、孫と娘に「現実と対峙せよ」「見て見ぬふりをするな」「やり過ごすな」という強烈なメッセージを残す。それは彼女が自分自身の人生に落とし前をつけたと言うことも意味している。アルツハイマーの初期の認知症に患う彼女にそれほど多くの時間は残されていない。そして、死んだ女の子に対するエンパシーのようなものを強く感じさせるものがあった。

詩の教室の最終日にミジャの姿はない。教卓の上には花束とひとつの詩が置かれている。その詩を詩人の先生が読み始める。アグネス、自死を選ばざるを得なかった少女の洗礼名をタイトルにして、少女に詩を捧げたのである。

ラストシーンで、少女が欄干に手を置き、川を覗き込んでいる。そして、こちらに振り返り、観客の顔を見つめて、この映画は終わる。

少女の死は物語上の小道具ではなく、観客自身の問題だと言われているような気がした。

韓国の地方都市の何でもない風景の中で、慎ましく生きている女性の平凡な日常が壊れ、二度と元には戻らない。戻さないことを選んだのは、主人公自身の選択である。

彼女が気付き、その気付きから得られたものを自分自身の言葉としてノートに走り書きしていく。そうすることによって、彼女は自分がすべきことを知っていくのだ。自らによって自身を変化させ、変化した彼女は元の世界に戻ることはできない。自分と向き合うこと、それは表現することで、表現することによって、自分をより知ったのである。詩人になるとは、自らの世界を見つめ、自らの中にある言葉を拾っていく行為なのだろう。自分自身の目を通して言語化されたものを再度見ることによって、さらに自分へとつながる鍵となり得る。

映画館では、ラストシーンに呆然としてしまい、よく考えられなかった。帰りの電車の中で、死んだ少女の気持ちに寄り添い、理解しようとしたミジャの気持ちを考えたとき、滂沱の涙が流れ、自分でも驚いてしまった。

この映画の主人公は特別な人間ではないが、この行動によって特別な人間になった人である。正しいことをすべきだと信じた人間としてもう一度生まれ直している。

あまりに衝撃的で、生活の中でこの映画のシーンを反芻している。一つはラストの少女のまなざし。もう一つはミジャが孫の足の爪を切りながら、爪のあいだに溜まった垢をよく洗うように説教するシーンだ。あの男児を甘やかす文化があの犯罪を引き起こしてしまったのだろう、と風呂に入るたびに思い出してしまう。

2010年頃のわたしは生きることに必死で映画を観ている余裕がまったくなかった。その頃に公開されていた本作をちゃんと観られて、感動できている今が素直にうれしい。

ドゥニ・ビルヌーブ監督の『灼熱の魂』も、2010年頃の作品で、それを去年観られたときも、そのような気持ちになった。もしや、2010年前後の作品にすごい作品が埋まっているのかもしれない。

映画は、そのようにして作品を追いかけられるところもまたよい。

(蛇足だが、あまりにイ・チャンドンがすごすぎて、このレビューを書くのに、2週間もかかってしまった。音声入力20分で3,000字。すぐにアップできるかと思いきや、加筆と推敲をしているうちに、結局3時間もかかっている。果たして音声入力で時間短縮になるのだろうか。メモ書きにはちょうどよいような気もしているけれど。ちなみにこの記事は4,000字です)

2018年の『バーニング』もよかった。

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