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被災地、わたしたちは、こうして過ごした 神戸

2024年1月1日、お正月。
能登半島地震は、お正月気分を一気に吹き飛ばし、
突然やってくる災害は、
もう日本のどこにいても避けられないんだと、
実感させられた。
こんなに発展した現代においても、
災害の前では、私たち人間は無力であることを
思い知らされ、どん底に落とされる。
それでも、私たちは前を向く。
歩もうとし始める。
そうするしかないことを感じ取る。

一瞬にして、奪われてしまう日常は、
29年経っても、忘れられないほど
脳の中に組み込まれてしまうものなんだな。
その時々の情景は、写真のように甦り、
正確な年月、時間は覚えてないけれど、
状況は、覚えている。
あの頃は、スマホもないし、記録のしようがない。
今なら、SNSで、リアルタイムで情報を共有できるが、
あの時は、電話しか連絡を取れる手段がなかったんだ。
少しずつ、脳の中の記憶写真を取り出し、
残していこうと思う。
幸にして、私たちは、生きていたのだから。

1995年、私は、神戸にいた。
仕事を辞めて、時々、単発の派遣仕事をしながら、
豆腐製造販売をしている両親と共に暮らすことで、
何かしら手伝えたらいいかと、
家族の便利屋さんになろうと思っていた時だった。
仕事を辞めた理由は、もう一つあって、
数年前に、アメリカで出会ったアラブ人男性と
結婚するために、いつでも日本から出発できるように
準備をしていたのだ。
まあ、いつか相手が、迎えにくるだろうと思っていた。

1月16日、震災前日夕刻、私たち家族は、外食していた。
父は、行きたくないと、お留守番していて、
母と兄家族と私とでの外食だった。
家に帰ると、父が、「地震があったで」と言っていた。
震度にしたら1か2くらいなのだが、父曰く、
突き上げられるように感じたと言っていた。
私たちは、料理屋にいたから、全く感じなかった。

そして、次の日早朝、その時がやってきた。



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