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何を信じていけば良いのか分からなくなったときに読む本

「自分のための人生(ウェイン・W・ダイアー著、三笠書房)」というタイトルからしてドンピシャの本。原作の題名は'Your Erroneous Zones' 。

Erroneousとは、間違った、誤りのある、という意味。

何が間違いで、誤りなのだろうか。

本の冒頭から、一つ一つの言葉が心に響く。

「自分から不幸になってしまう人」
「選択肢は、現実を変えるか、見方を変えるか」

著者は、自分のモノの見方が、自分の人生を形作っていると指摘する。
その意味で、自分の人生はコントロールできるとも伝えている。

例えば「雨が降っている」という事象に対して、そこに意味を与えるのは他の誰でもない、自分だ。その事象に対して、幸福な見方をするか、不幸な見方をするかで、自分の一日、ひいては日々を積み重ねてできる人生が幸福にも不幸にもなる。その人生の責任者は、その思考をした自分だ。

かつて、木村拓哉の逸話を聞いたことがある。すごく忙しくてもう何日も睡眠時間を削って仕事が続いた時、たいていの人なら死にそう、大変、というところを「スッゲー充実している」と口ずさむのだそう。純粋に、すごいと思った。

果たして、私は、できているか?もちろん、こんな本を読むくらいだから、できていない。

「口癖が自分の器を決める」

これにはハッとさせられた。
「私はまだまだです」なんて日本語表現があるが、まだまだ、なんて言っていたら永遠に「まだまだ」なままで終わる。

私は、英語をかなり勉強した。高校卒業時には全国でも高校の中でも相当上位の成績を取っていたにもかかわらず、まだまだ、なんて思っていた。大学で留学もして、Speakingも上達。

なのに、まだまだ、と思った。

私より成績は下であったであろう友達は、どんどん、海外に出て行き、今も海外で暮らし、活躍をしている。
私は、今もまだ日本にいる。

「まだまだ」を私の器にしてしまったのだ。

だから、
「私はもう準備は十分できた」
「だから、英語を仕事にする」
「だから、海外にいくために準備をする」

と決めた。

例えば、楽器。私は子供の頃からずっとバイオリンを弾いていた。
でも、それを仕事にするなんて、無理、とそう最初から思っていた。

ある時読んだ別の本で、合気道を習い始めて数ヶ月の男性が、どうしたらプロになれるかと聞いたらしい。師匠は、近所の子を集めて道場で教えたら、君はそれだけで、プロだ、と伝えた。その男性はすぐに地域の道場を借りて、合気道の教室を始めたらしい。プロになったのだ。

私は、ひょっとしたらバイオリンでだってプロになれる可能性がある。
実際に、友人は音大出身ではないが近所の子にバイオリンを教えている。

昔、100%自分原因説、なんて言葉が流行ったが、今は本当によく理解できる。全ては、自分次第だ。悲しんでいたいなら、悲しめばいいし、もう十分悲しんだから、次に進もうと思えば、進んだらいい。

ある程度の年齢になったら、自分の人生の責任は、自分にある。

仕事や、毎日の生活を習慣として盲目的に続けていると、いつの間にか、一体誰のためにやっているのか、分からなくなる時がある。そして、そういう時は大抵、何か自分の意図しない違う方向性になっているときなのだろうと思う。

その時こそ、この本を書棚から持ち出して、改めて目を通す。

あなたが委ねているその軸は、正しいのか?
その軸は他の誰でも、何でもあっても間違いで、
全ては自分に通ずるのだということを、この本は問いかけ、気づかせてくれる。

「一体、誰のための人生か!」

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