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第2週目火曜日 スポーツ選手 荒川静香


はじめに

スポーツ選手2人目は荒川静香さんです。
アイススケート続きですが、やはり伊藤みどりさんの次は荒川静香さんです。

荒川静香さんは1981年12月29日生まれの2020年夏現在38歳。冬生まれなんですね。神奈川県鎌倉市ご出身です。


アジア選手として初めて冬季オリンピックフィギュアスケート競技で金メダルを獲得し、「東洋の女神」と称えられた。伊藤みどりさんの夢を叶えたのが荒川静香さんです。


お生まれと学生時代


荒川静香さんは東京の病院でお生まれになり、鎌倉で1歳4か月まで過ごしその後サラリーマンのお父さんの転勤で宮城県仙台市に転居、乳児期から高校卒業まで宮城県で過ごし、小学生時から「宮城郡利府町」に住み、約10年間を過ごされます。


幼少時は水泳、体操、英会話、書道、そろばん、ピアノなど様々な習い事をなさっていて、なかでも3歳から始めた水泳では6歳までに全泳法を覚えたそうです。

やはりスケートの前に大変スポーツの才能のある方なんですね。
 

スケートをはじめられる


5歳からスケートを始め、小学1年生の時に本格的にフィギュア・スケートを始められています。 伊藤みどりさんとくらべると少し遅かったような気がしますが(伊藤みどりさんが山田コーチに才能を見出されたのは5歳)しかしやはり天性のスポーツ才能もあって荒川静香さんは、小学3年生のときに5種類の3回転ジャンプをマスターし「天才少女」と呼ばれました。小学5年生で全国の有望アイススケーターが集まる第1回野辺山合宿に参加され、小学6年生で全日本ジュニア選手権に初出場し、7位となられます。


学生時代のご活躍


また、中学1年生1994年中学生の時に初めての国際大会であるトリグラフトロフィーに出場し、優勝を果たされます。
同年、中学1年生で2度目の全日本ジュニア選手権に出場し優勝、以降この大会で史上初の3連覇を果たされています。そして同様に全国中学校スケート・アイスホッケー大会でも3連覇を達成されました。1995年、中学2年生で出場した国際大会のネーベルホルン杯では3回転-3回転のコンビネーションジャンプを成功させてシニアの部で優勝。1997年、中学3年生でシニアの第65回全日本選手権に特例出場し、村主章枝さんに次いで2位に入られます。同年の世界選手権の日本女子シングル代表枠は2枠だったそうですが、荒川さんにはまだシニアでの実績がなかったためと、同回全日本選手権にケガで欠場した横谷花絵さんが特例で選出されたため、荒川さんの世界選手権入りはならなかったそうです。


 このあたりから伊藤みどりさんと若い時の大会成績が似てきているような気がします。

1997年(平成9年)、そして県下ではアイスホッケーやフィギュアスケートが盛んなことで知られる東北高等学校に入学されます。
高校1年生での初シーズン、第66回全日本選手権でライバルの村主さんらと競り合う中で高校1年生で初優勝を果たし、1枠しかなかった1998年長野オリンピックと1998年世界選手権の代表の座を勝ち取られます。


こうして伊藤みどりさんより早い年齢でオリンピックを経験されます。

長野五輪女子シングルでは、SPでは3回転ルッツ-3回転トウループのコンビネーションジャンプを成功させましたが、フリップがダブルとなり14位。フリーではルッツが2回共2回転と失敗、最後の3回転トウループを転倒するなど本調子では無かったため14位、総合で13位に入られます。

しかし一方、同じく初の代表だった1998年世界選手権では、ジャンプミスが続いて総合22位に終わられます。


高校2年生の1998-1999シーズン、第67回全日本選手権では再び村主さんに競り勝ち2連覇を果たされます。1999年アジア冬季競技大会では2位となりましたが、この年から始まった1999年四大陸選手権で6位に終わり、1999年世界選手権の代表入りを逃されます。

高校3年生の1999-2000シーズンは不調で低迷、昨年に続き世界選手権に選出されませんでした。

このあたりで少しスランプな時期があったと言えるのではないでしょうか。


上京


高校卒業後荒川静香さんは自己推薦入試で早稲田大学に進学され、初めて親元を離れて東京での生活を始められます。

大学1年生の2000-2001シーズンは新横浜のプリンスクラブに在籍され、染矢慎二氏に師事し初めてマンツーマンでのレッスンを経験されたそうです。このシーズンから、プログラムの音楽を表現する気持ちが芽生えたそうで、第69回全日本選手権は2位だったものの、国際大会ではふるわなかったそうです。
大学2年生の2001-2002シーズンからは佐藤久美子氏に師事。2002年ソルトレークシティオリンピックの女子シングル日本代表枠は2枠あったが、1枠はグランプリファイナルに進出した恩田美栄さんが早々と五輪内定に決まります。残り1枠が賭かった全日本選手権では、又しても村主さんとの激闘を繰り広げたが、ジャンプ失敗が響いて総合2位に敗れ、惜しくも2大会連続の五輪代表選出はかないませんでした。但し四大陸選手権では、五輪代表の恩田さん(3位)を上回り総合2位と健闘されています。


大学3年生の2002-2003シーズン、練習拠点を神宮外苑スケート場に移し佐野稔氏に師事、振付はニコライ・モロゾフ氏に依頼することになりました。2002年末の第71回全日本選手権で3位になった後、年明けはユニバーシアード冬季競技大会、冬季アジア大会で立て続けに優勝されます。さらに四大陸選手権では2年連続の2位、初進出のグランプリファイナルでは4位となられます。5年ぶりに出場した世界選手権では、SPでスピンに入る前に氷の溝にはまる不運で転倒、さらに肩を脱臼するアクシデントに見舞われましたが、スピンをしながら肩をはめ直し最後まで滑りきったそうです。フリーでは3回転ルッツ-3回転トウループ-2回転ループと高難度のコンビネーションを決め、初の入賞となる総合8位となられます。

アメリカへ


大学4年生2003-2004シーズンは本格的にアメリカに練習場所を移し、キャラハンコーチの元で練習を続けられます。GPファイナルを含むGPシリーズ4戦全てで表彰台に上がり、全日本選手権3位ながら世界選手権の代表に選ばれた。世界選手権の3週間前、急遽コーチをタチアナ・タラソワに変更しています。世界選手権はフリーで3回転ルッツ-3回転トウループ-2回転ループ、3回転サルコウ-3回転トウループのコンビネーションジャンプを含む全ての要素を完璧に決め、技術点では6.0満点も獲得して総合優勝を果たし、日本人選手として10年ぶり3人目の金メダリストに輝かれます。この当時、予選直前に左足坐骨を骨折する大ケガを負ったが、軽い肉離れだと思って競技を続けていたということです。当時はシーズンいっぱいでの競技引退、プロスケーター転向を決意していたそうですが、大学卒業後もプリンスホテルに所属して競技を続けることになられました。「スポーツとマスコミの考察」という卒業論文を書いて卒業されています。


社会人1年目の2004-2005シーズン、NHK杯で初優勝されます。GPファイナルでは自身最高の2位に入られます。しかし全日本選手権はSP1位だったが、足の怪我でフリーを棄権されます。それでも昨年優勝の実績により、世界選手権に3年連続で選出されます。世界選手権のSPは5位につけましたが、フリー演技では必須のアクセルジャンプを跳び忘れるなどで得点が伸びず、総合9位で終わられます。

社会人2年目の2005-2006シーズンは中国杯とエリック・ボンパール杯でそれぞれ3位につけたものの、グランプリファイナル進出を逃してしまわれます。この時は「日本選手3人がグランプリファイナルで表彰台に上がりオリンピック出場枠が埋まったら?」と記者に質問された際、「引退する」と発言していたそうですが、全日本選手権で3位に入ったことで、8年ぶり2回目の五輪出場となるトリノオリンピック代表選出が決まりました。

トリノオリンピックでの活躍


ここで今までのコーチ、プログラムの変更及び音楽なども荒川さんは変更されます。またトリノオリンピック一ヶ月前に、セントルイスから拠点のコネチカットに帰る途中、死を覚悟した体験があったそうです。空港上空で後輪が出ないため胴体着陸をするアナウンスが流れた時、「もし生き延びたら、トリノでは感謝の気持ちで演技しようと思った」と回顧されています。

2006年トリノ五輪女子シングル(SP:2月21日、FS:2月23日)では、SPでほぼノーミスの内容で3位につけ、荒川・サーシャ・コーエン・イリーナ・スルツカヤの上位3人全員が66点台に乗せ、1点差以内に並ぶ大接戦となります。フリーではループジャンプがダブルとなった以外は完璧の演技を披露、自己最高得点をたたきだして1位となり、会場の観衆からはスタンディングオベーションの賞賛を受けます。こうして合計スコア191.34で総合優勝を果たし、アジア選手として五輪フィギュア史上初の金メダル(併せて同五輪日本代表選手として唯一のメダル)を獲得されます。これは五輪女子フィギュア史上最年長(24歳)の金メダル獲得でもありました。
ショートプログラム (SP) とフリースケーティング(フリー)で合計7つあるスピンと2つあるスパイラルの全てでレベル4を獲得し、2つのステップはともに事実上最高難度であるレベル3を獲得したそうです。このようにレベルの取りこぼしが1つもなかったのは出場選手中荒川さんただ1人であり、また、ISUジャッジングシステム導入後のISU公式試合を通じても初めてのことであったそうです。演技構成点で8点台をマークしたのも荒川さんただ一人だったそうです。
トリノ五輪後の世界選手権(3月19日 - 26日)にも選ばれていたそうですふが、調整不足のため出場を辞退されました(代替選手は恩田美栄さん)。同選手権終了の次の日にあたる3月27日(月)、仙台市都心部の東二番丁通りにて凱旋パレードが実施され、沿道には約7万3000人の観衆が集まりました。同年5月7日、記者会見でアマチュア競技引退とプロ転向を表明されます。会見の席で「今後は自身の演技力の向上やスケート界を広くサポートしていきたい」と語られました。

プロ転向後


プロ転向後2006年はトリノオリンピックから1年の間に国内外計100公演以上のアイスショーに出演されています。2011年から競技プログラムの振り付けもなさっています。そして2012年9月23日、日本スケート連盟評議員会で史上最年少の30歳で日本スケート連盟理事に選任されます。

2012年10月5日に行われたプロアマ混合の国際大会、第1回メダルウィナーズ・オープンで優勝し初代女王にもなられています。
2014年10月8日、日本スケート連盟役員改選にて史上最年少の32歳で日本スケート連盟副会長に選任されます。
2014年4月16日、自身の公式HPで妊娠3か月を公表され、当分の間アイスショーへの出演辞退を表明されました。同年11月長女を出産、約1か月後の同年12月、グランプリファイナルで解説者として仕事復帰を果たされます。2018年4月17日、日本人として3人目の世界フィギュアスケート殿堂入りが発表されます。2018年5月に第2子(長男)を出産されています。

現在は育児と平行して日本スケート連盟副会長を務めるほか、アイスショー、テレビ、イベント出演、スケート解説、アイスショープロデュース(フレンズ・オン・アイス、クリスマス・オン・アイス)、オリンピックキャスターを務めるなど様々な分野で活躍していおられます。

こんな漫画があるそうです。

最近見つけました。




めぐめぐが素晴らしいと思う点は

1色々スランプな時期が何回かあったスケート競技人生を送られた荒川静香さんですが、オリンピックを本当に今回こそ最後の最後最後だからと全て一新して一番自分の得意なものにして最後の準備をされたこと、また1か月前の死ぬかもしれない飛行機での体験を通して、生き延びたら感謝の気持ちで滑ろうと思われて本番に臨まれたことが、スケート人生最高の演技を導いたのだと思います。そしてそれをやりきられたことが素晴らしいです。

2上に書いたこととも重なりますが、親元を離れられてから、色々な大会経験からいろんな新しいことを試す、アメリカにも行くなど、非常に高い順応力があられるのが素晴らしいです。だからこそ長く競技人生を送られたのだと思います。

3長いライバルの村主さんをはじめ色々女性スケーターがいた時代に突出して活躍できたのは、多くの後輩スケーターに慕われるなど、やはり人物としても素晴らしいので、色々なコーチが変わってもうまく行き、また引退されても連盟から信頼され、また様々な分野で活躍されているのだと思います。

めぐめぐは荒川静香さんの曲で始めてオペラのトゥーランドットを知る機会が出来ましたが、実際オペラを見たのは今年2020年コロナ期に入ってからです。



あの曲を聴くとレイバック・イナバウアーをしている荒川さんの姿が目に浮かびます。ただあの技は点数には関係ないということを今回知って驚いています。

ますます日本のアイススケートを盛り上げて頂きたいです。

もしサポート頂けたらとても嬉しいです。頂いた貴重なお代は本代にいたします。どうぞよろしくお願いいたします!