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第26週 月曜日歴史上の人物 米沢 富美子


はじめに

第26週目の歴史上の人物は物理学者の米沢富美子さんです。

子ども時代


米沢 富美子(よねざわ ふみこ)さんは、1938年10月19日奥 富美子さんとして大阪府吹田市にお生まれになりました。

お母さんは学年で一番の成績を保ち、茨木高女(現在:大阪府立春日丘高等学校)を首席で卒業し、数学が得意だったそうです。

特に幾何の問題が得意で、春日丘高校を卒業後、主席教師方々からお茶の水女子大学も勧められたほどだったそうです。

しかし、当時の女性教育については時代が熟しておらず、お母は上級学校の進学を諦めざるを得なくなり、娘に数学を熱心に教え、夢を託されました。

1943年5歳の時富美子さんはお絵かきをしていた時、そんな母から「三角形の内角の和は二直角」と教えてもらい衝撃を受けられます。それがきっかけで数学に興味を持つようになられたそうです。


1945年出征中のお父親がニューギニア・ソナムにて戦死されます。

富美子さんは女4人の家庭の長女として育たれます。


1948年小学校5年生のとき、知能テストでIQ175と判明されたそうです。


1950年小学校を卒業されます。成績優秀につき、小学校卒業に際して大阪府知事賞を受けられたそうです、


1951年-1952年:中学1年から2年にかけて大阪の新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)の「豆記者ホール」の記者として花柳有洸氏などの著名人のインタビューを行われたこともあるそうです。

登美子さんは中学時代は数学部に所属され、高校課程の数学の多くを修得されたそうです。


1957年大阪府立茨木高等学校卒業。

高校時代は文芸部に所属し、詩や小説を執筆されたそうです。


大学時代

1961年京都大学理学部物理学科を卒業されます。この時登美子さんは

湯川秀樹氏の下で学ばれます。登美子さんは更に物理を学ばれることにされ修士課程に進まれます。

1961年12月、京都大学大学院理学研究科物理学専攻修士課程1年のときに結婚され、米沢姓となられます。

夫の米沢允晴氏は大学のサークル「エスペラント部」の部長で2年先輩であり、京都大学経済学部卒業後、山一證券に勤務していたそうです。

1963年:6月、米沢氏がロンドンに単身赴任することになり、。月、夫を追いかけて渡英し、京大博士課程1年在学のままキール大学大学院に留学されます。
1964年:1年間の英国留学を終えて日本に帰国され、京都大学博士課程2年に復学されます。

研究者として



1966年1月長女を出産されます。同年京都大学大学院理学研究科物理学専攻博士課程を修了されます。

米沢氏の東京赴任に伴い、富美子さんも東京に移り、東京教育大学物理学科に所属されます。ここで朝永振一郎と会われます。

同年8月、京都大学基礎物理学研究所助手に採用され、長女と共に京都へ赴任されます
1967年8月、次女を出産されます。翌年にかけて、コヒーレントポテンシャル近似(CPA)に関する理論を発表されます

1970年1月三女を出産されます。

1970年東京工業大学理学部助手になられ。東京に戻られます。
1972年米沢氏のニューヨーク転勤に伴って渡米されます。

登美子さんはイェシヴァ大学の客員研究員となり、ジョー・レボヴィッツ氏の研究室で2年間を過ごされます。
1974年ニューヨーク市立大学大学院センター客員研究員になられます。
1975年日本に帰国されます。

1976年京都大学基礎物理学研究所助教授になられます。

同年 手島工学研究賞を受賞されます。

娘さんが幼少のころ、学会に娘を連れて参加し会場の後ろで遊ばせていたことから登美子さんは「子連れ狼」の異名で呼ばれていたそうです。

3人の娘さんはそれぞれの道を歩まれしたが、お二人は理系のようです。


1981年慶應義塾大学理工学部助教授になられます。
1983年慶應義塾大学理工学部教授になられます。同年、乳癌で手術を受けられます。
1984年乳癌で二度目の手術を受けられます。

1984年 第4回猿橋賞を受賞されます。

1989年 科学技術庁長官賞を受賞されます。

1996年 エイボン女性大賞を受賞されます。
1996年3月26日米沢氏が肝臓癌で病死されます。

1996年から1997年まで女性として初めての日本物理学会会長を務められます。

1998年から2000年まで大佛次郎賞選考委員を務めておられます。


2000年から2003年まで日本学術会議第18期会員を務めておられます。

2001年 日本女性科学者の会・功労賞を受賞されます。

2002年 福澤賞を受賞されます。



2004年慶應義塾大学名誉教授になられます。

2005年 ロレアル-ユネスコ女性科学賞。内閣総理大臣賞。大阪府知事賞。吹田市長賞を受賞されています。

2008年から2012年まで朝日賞選考委員を務めておられます。

2018年まで科学技術ジャーナリスト賞選考委員と大阪府吹田市子供科学賞選考委員を務めておられました。


2019年1月17日東京都内の自宅で心不全のため死去されます。80歳没。

米沢登美子さんの著書


米沢登美子さんは以下の著書を出版されています。


著書
『ブラウン運動』共立出版 物理学one point 1986
『アモルファスな話』岩波書店 1988
『ランダムな構造に秩序をみる』三田出版会 ステアリングシリーズ 科学技術を先導する30人 1990
『人生は夢へのチャレンジ 女性科学者として』新日本出版社 1991
『複雑さを科学する』岩波科学ライブラリー 1995
『科学する楽しさ 21世紀へのチャレンジ』新日本出版社 1996
『科学の世界にあそぶ』オーム社 テクノライフ選書 1996
『心が空を駆ける』新日本出版社 2000
『二人で紡いだ物語』出窓社 2000 のち朝日文庫、中公文庫
『真理への旅人たち 物理学の20世紀』日本放送出版協会 NHK人間講座 2003
『人物で語る物理入門(上、下)』岩波新書 2005-06
『〈あいまいさ〉を科学する』岩波書店 双書時代のカルテ 2007
『猿橋勝子という生き方』岩波科学ライブラリー 2009
『まず歩きだそう 女性物理学者として生きる』岩波ジュニア新書 2009
『朗朗介護』朝日新聞出版 2011
『金属-非金属転移の物理』朝倉書店 2012
『人生は、楽しんだ者が勝ちだ』(私の履歴書)日本経済新聞出版社 2014
『不規則系の物理 コヒーレント・ポテンシャル近似とその周辺』岩波書店 2015
共著
『ランダムな世界を究める 物質と生命をつなぐ新物理学』立花隆共著 三田出版会 ソフトテクノロジーシリーズ 1991 のち平凡社ライブラリー
『ありがとうおかげさま いのちとは何か生きるとは何か』下村満子編著 稲盛和夫,村上和雄,渥美和彦,中森じゅあん共著 海竜社 2006
『こころを学ぶ ダライ・ラマ法王仏教者と科学者の対話』村上和雄,志村史夫,佐治晴夫,横山順一,柳沢正史,矢作直樹,河合徳枝共著 講談社 2013
『人物でよむ物理法則の事典』総編集 辻和彦編集幹事 朝倉書店 2015
翻訳
サウレス『多体系の量子力学』松原武生共訳 吉岡書店 物理学叢書 1965
ア・アブリコソフ, エリ・ゴリコフ,イ・ジャロシンスキー『場の量子論の方法 統計物理学における』松原武生,佐々木健[要曖昧さ回避]共訳 東京図書 1970
ザイマン『乱れの物理学』渡部三雄共訳 丸善 1982
ピーター・W.アトキンス『エントロピーと秩序 熱力学第二法則への招待』森弘之共訳 日経サイエンス社 1992
スチュアート・カウフマン『自己組織化と進化の論理 宇宙を貫く複雑系の法則』監訳 森弘之,五味壮平,藤原進訳 日本経済新聞社 1999 のちちくま学芸文庫
マーティン・ゴールドスタイン,インゲ・F.ゴールドスタイン『冷蔵庫と宇宙 エントロピーから見た科学の地平』監訳 森弘之,米沢ルミ子訳 東京電機大学出版局 2003


めぐめぐが思う米沢富美子さんのすごいところ

1子どもの頃から数学が好きになられて、お母さんと厳しい少女時代を過ごされた時期に物理に興味を持たれ、そのまま研究家として大成されたこと。

2家族を大切され、子どもを育てながら、自分のキャリアも積まれたこと。

3また多くの著書を書かれ、多くの子ども達に科学の素晴らしさを伝えられたこと。



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