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第28週 芸術家 オノ・ヨーコ

はじめに


今日の芸術家は前衛芸術家、音楽家、平和運動活動家のオノ・ヨーコ(Ono Yoko)さんです。



お生まれと家族






オノ・ヨーコさんは1933年2月18日、小野英輔氏・磯子さんの長女として、小野洋子さんとして東京でお生まれになりました。下に洋子さん・啓輔氏・節子さんの3人きょうだいがいらっしゃいます。

お父さんは、日本興業銀行総裁を務めた小野英二郎氏の息子さんであり、ピアニストから銀行員に転じ、ヨーコさんが生まれたときは横浜正金銀行のサンフランシスコ支店に勤務していたそうです。

お母さんは、「安田財閥の祖」である安田善次郎氏のお孫さんにあたるそうです。

母方の曽祖父は元宇和島藩士で実業家の伊臣忠一氏、義理の伯父には、医学者の小野康平氏や外交評論家の加瀬俊一氏、歌舞伎役者の片岡仁左衛門氏、伯母には白系ロシア人ヴァイオリニストの小野アンナさん、従弟には地理学者の小野有五氏、画家の石井茂雄さんがいらっしゃいます。

弟の啓輔氏は三菱商事に勤務、妹の節子さんは世界銀行に長年勤めたのち彫刻家になられたそうです。


子ども時代




ヨーコは2歳のとき、お父さんの暮らすサンフランシスコへ転居されたそうですが、2年後にはお母さんと共に日本へ帰国され、幼少期は安田家の鎌倉の別荘で暮らしたそうです。


自由学園(幼稚園)、学習院初等科へ通われ、父の転勤に伴いニューヨークに転居し、ロングアイランドのパブリックスクールに通われました。

再び帰国後、啓明学園初等学校、青南小学校に編入され、学習院女子中・高等科を経て、1952年に学習院大学の哲学科に入学されます。

1953年、20歳のときに家族と共にお父さんの赴任先であるニューヨーク郊外のスカーズデールに移り住み、サラ・ローレンス大学に入学、音楽と詩を学ばれます。

前衛芸術活動を開始



サラ・ローレンス大学在学中の1956年に音楽家の一柳慧氏と出会われ、同大学を退学し結婚され、前衛芸術活動を開始されます。

音楽家ジョン・ケージ氏は ヨーコさんに当時多大な影響を及ぼしたひとりだそうです。

 ケージ氏の関わりは、ニュー・スクールでのケージ氏の有名な実験的作曲法の授業の生徒だった一柳慧氏との関係を通してのものだった。

こうしてヨーコさんは、ケージ氏と彼の生徒達の型にはまらない前衛的な音楽に次第に傾倒していかれたそうです。



1959年、ニューヨークを活動拠点とする フルクサスのジョージ・マチューナス氏らと共に活動を行われます。


フルクサス運動の提唱者ジョージ・マチューナス氏はヨーコさんの作品を高く評価していたそうです。

ヨーコさんと共にフルクサスを広めようと考えていたが、ヨーコさんはフルクサスをムーブメントだとは認識しておらず、どこにも属さないアーティストでありたいと考えたためにある一定の距離を置いていたそうです。


1960年夏、ヨーコさんはニューヨークに芸術家の作品を展示する場所を熱心に探し、マンハッタンのチャンバーズ・ストリート112番地に格安なロフトを見つけ、そこをスタジオ兼住居とすることにされました。

それは、ケージがニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチでの講師を辞めた直後のことだったそうです。

一方、ラ・モンテ・ヤング氏はそのロフトでコンサートを企画させてほしいと頼み込み、不本意ながら承諾したそうです。

やがて二人は数々のイベントをこのロフトで主催することになった。互いに自分こそが第一キュレーターだったと証言しているが、ヨーコさんによると、次第に彼女はヤング氏の補佐的役割へと押しやられていったそうです。

このロフトでのイベントでは、キャンバスの小片を地面に置き、足跡をつけて完成する『踏まれるための絵画』に代表されるヨーコの初期のコンセプチュアル・アート作品も展開されていたそうです。

その観賞者は、アート作品とは壁に飾られた手の届かないものである必要はなく、地面におかれ汚れた不揃いなキャンバスのかけらで、しかも踏みつけられる事によって完成とすることもあり得るのだという、ヨーコが提示したジレンマに直面せざるを得なかったそうです。



 また、カーネギー・ホールで パフォーマンスを行われていました。

1962年から1964年まで帰国、観客が彼女の衣装をはさみで切り取るパフォーマンス『カット・ピース』(Cut Piece)や、言葉による作品集『グレープフルーツ』(Grapefruit)などの作品を発表されました。

『カット・ピース』は作品を介して彼女の内的苦痛を伝えるという、彼女の作品にはよく見られるもののひとつだそうですある。

大学で、ジャン=ポール・サルトルの実存主義に触れ、自身の人間としての苦痛を鎮めるため、観客にアート作品を完成させるための協力を求めると同時に、自身のアイデンティティを確立させようともしていた。

『カット・ピース』は、アイデンティティに対する問いかけに加え、社会的調和と愛の必要性も訴えている。また、苦痛や孤独という人としての普遍的な苦悩に言及すると同時に、ジェンダー問題や性差別にも触れているフェミニズム・アートでもあるそうです。

この作品はロンドンをはじめ、様々な場所で上演され、観客が変わる度に違った反応を集めている。日本では観客は控えめで用心深く、ロンドンでは熱狂しすぎた観客が暴力的になり、ヨーコが警備員に保護されるに至った事もあるそうです。

1965年にメイスルズ兄弟によって同名のドキュメンタリー映画がつくられ2003年には、パリで再演されている

 当時の日本は、前衛芸術というものに慣れておらず、評価は低く、評論家にも批判されたそうです。




ヨーコさんは米国の映像作家アンソニー・コックス氏と出会い、1962年の11月28日に結婚しようとされますが、一柳氏との離婚が法的に成立しておらず、1963年3月1日に結婚は「無効」とされたそうです。

同年の6月6日に再度結婚をされます。

1963年8月8日、娘キョーコさんが生まれます。

1964年、ニューヨークに戻り、活動を再開されます。


1964年草月会館で上演された『カット・ピース』もそのひとつです。

この作品の説明には、一言「切れ」(Cut)という破壊的な動詞があるのみで、観客が舞台上に座っているヨーコの衣服を、ヨーコが裸になるまで文字通り切るという作品である。

『グレープフルーツ』は 1964年に東京で刊行され、超現実的で、禅問答にも通じる命令口調の言葉が並び、読み手の創造力の中で完成するというアート作品である。

一例として、次の一節があるそうです。

「みんな家に帰るまで隠れなさい。みんなあなたのことを忘れるまで隠れなさい。みんな死ぬまで隠れなさい」。

ヒューリスティクス言葉によるアートであるこの作品は数回出版されたが、1971年サイモン&シュスター版が最も広く流通し、2000年には同社によって再版されているそうです。

パフォーマンス作品として、この作品から引用することもあり、多くの展示会もこれに基づいているものが多いそうです。

1964年から1972年の間にヨーコさんは実験映画作家として16本の映像作品を撮っておられます。

1966年に製作の『ナンバー・4』(通称『ボトムズ』)は高い評価を得た作品だそうです。

歩行機上を歩く人のお尻のクローズ・アップ・ショットの連続で、スクリーンに映し出された映像は、お尻の縦の線と下部にできる横皺の線とでほぼ4分割されているように見える。サウンドトラックとして、このプロジェクトの参加者と参加希望者のインタビューが使われている。

1996年スウォッチがこの作品を記念してそのお尻の映像をデザインした時計を製造したそうです。



1966年にロンドンの現代芸術協会の招きで渡英し、活動の場をロンドンに移されます。

その時期にジョン・レノン氏と関係を持ちはじめられたそうです。

コックス氏とは1969年2月2日に離婚されます。

ヨーコさんはコックス氏から娘を引き取ろうとし、法廷闘争も行ったそうです。

コックス氏はその混乱の渦中で、事件を起こし逮捕されるような事態に陥ったそうで、程なくヨーコは娘の親権を放棄されたそうです。

お二人は母と娘は全く会えないまま長い年月が過ぎ去ったそうですが、キョーコさんが20代になり子供を産む時になってヨーコさんに連絡を取られ、それからジョン・レノン氏の死後は、コックス氏やキョーコさんと親しく連絡を取りあっておられるそうです。


ロンドンでの活動

1966年1月、ウェズリアン大学で行われたレクチャーで、ヨーコさんは作品のインスピレーションについて次のように語っておられます。

「音楽以外の作品はすべて、イベント的な要素を持っています。イベントとは、ハプニングのように他の分野の芸術を同化させたものではなく、さまざまな知覚からの自身の解放なのです。多くのハプニングにみられる一体感もなく、ただ自己と向き合う営みなのです。ハプニングと違って台本もありません。ただし、イベントの引き金となるものはあります。願いや希望に近いものかもしれません。心の壁を取り払い、視覚、聴覚、そして動的な知覚を捨てたあと、私たちは何を生み出すだろうか。私はそのようなことに思いを巡らしています。私のイベントは多くの場合、驚異を感じながら行なわれるのです。満足に食べることもできず、空想のメニューを弟と言い合っていた第二次世界大戦の体験にまで遡る手法です」。



1966年ヨーコさんはジョン・レノン氏と出会われます。


1966年11月9日ロンドンのインディカ・ギャラリーでヨーコさんは個展『未完成の絵画とオブジェ』を開かれていました。その開催前日ジョン・レノン氏が訪れ、ヨーコさんの作品「天井の絵」に惹かれたそうです。


それは部屋の中央に白い脚立が置かれており、観客はそれを昇り天井からぶら下がった虫眼鏡を使って、天井に貼られたキャンバスの小さな文字を見るという作品だったそうです。

レノン氏は当時を回想し「もし"No"とか『インチキ』みたいな意地の悪い言葉が書かれていたら、すぐに画廊を出て行ったよ。でも"YES"だったから僕は『これはいけるぞ、心温まる気持ちにさせてくれる初めての美術展だ』と思ったんだ」と後に語っておられるそうです。



1967年、ロンドンのリッスン・ギャラリーで、すべてのオブジェが半分の形で展示された個展『ハーフ・ア・ウィンド・ショー』("Half-A-Wind Show")をヨーコさんはレノン氏と共に行われます。

二人はその後、前衛的な音楽活動やパフォーマンスを行うようになり、1968年にアルバム『トゥー・ヴァージンズ』や『ドングリ・イヴェント』("Acorn Event") を発表されます。



1969年3月20日、ジブラルタルで結婚されます。結婚前後の二人の活動は、奇妙な立ち居振る舞いと映り、数多くの非難と中傷がヨーコに対して浴びせられたそうです。

当時、激化するベトナム戦争に反対して、『ベッド・イン』や『ウォー・イズ・オーヴァー』ポスター・キャンペーンなどの独自の「愛と平和」活動を展開されました。

1969年12月、プラスティック・オノ・バンドのファースト・アルバム『平和の祈りをこめて』を発表されます。

1970年12月、ファースト・アルバム『ヨーコの心(英語版)』を発表されます。

1971年3月、『フライ(英語版)』を発表されます。


再びニューヨークへ



1971年9月、ニューヨークに移り住まれます。アルバム『イマジン』の発表直前のことだったそうです。

1971年10月、エバーソン美術館で個展『ジス・イズ・ノット・ヒアー』を開く一方、前衛芸術家、反戦運動家、黒人解放運動家、女性解放運動家などと交流を深め、政治運動に傾斜してかれます。


1971年から1972年にかけて、反戦文化人の即時保釈を求める集会や北アイルランド紛争に抗議するデモへ参加、また、刑務所で起きた暴動の被害者救済コンサートや知的障害を持つ子どもの救済コンサートなどにも積極的に出演されます。

1973年4月、架空の理想国家「ヌートピア」の建国宣言のイベントを行うが、掲げた理想は、度重なる国外退去命令で挫折します。

1973年10月、レノンはロサンゼルスに移り住み、二人は別居する。レノンはこの期間を「失われた週末」と述懐している。別居中にアルバム『無限の大宇宙』と『空間の感触』を発表されます。

この頃女性解放を主張し日本語で歌唱しているシングル『女性上位万歳!』が1973年日本で発売され、小ヒットしているそうです。




1974年8月、「ウッドストックを日本で」をマインドにしたワンステップフェスティバルに出演され、横尾忠則氏作品のポスターのモデル・オノヨーコと虹がほとんどの駅にはりだされ新鮮な空間をつくったそうです。


1974年11月、レノン氏がニューヨークで開催されたエルトン・ジョンのコンサートに出演したことがきっかけになってお二人は再会されます。二人は翌年、1975年1月に再び生活を共にすることになったそうです。

1975年10月9日、レノン氏の35歳の誕生日にショーン・タロー・オノ・レノン氏が誕生します。

ショーン氏誕生後、二人は夫婦の役割を見直され、育児と家事をレノン氏が担当し、家計とビジネスをヨーコさんが担当したそうです。

ジョン・レノン氏の殺害


1980年、ショーンが5歳になったことを契機としてレノン氏は音楽活動を再開し、同年11月17日に共作アルバム『ダブル・ファンタジー』を発表されますた。しかし、その後間もない12月8日にレノンは自宅、ダコタ・アパートメンツ前でマーク・チャップマン氏によって射殺されます。

チャップマン氏の銃口はヨーコさんにも向けられたものの一難を逃れたそうです。

2001年、回顧展『イエス、ヨーコ・オノ』は、アメリカ美術批評家国際協会の最優秀美術館展賞を受賞します。

2002年、マルチメディア部門でスカウヒーガン・メダルを授与されます。

2001年、リヴァプール大学より名誉法学博士号を授与されます

2002年、バード・カレッジより名誉美術学博士号を授与されます。

スコット・マクドナルド客員教授は「彼女の作品は作品として賞賛に値するし、彼女がメディアの歴史の中で、そして世界の中で、主張してきた事も賞賛に値する。その勇気、不屈さ、粘り強さ、独立心、そして何よりも、創造力。そして、平和と愛こそが輝かしくて多様性に富んでいる人類の未来へと導いてくれるのだ、という信念はすばらしい」と過去に語っておられるそうです。

2005年、ニューヨーク日本協会から特別功労賞を授与されています。



2009年6月、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで、生涯業績部門の金獅子賞を受賞され初の日本人受賞者となられました。

受賞理由について、「パフォーマンス・アートとコンセプチュアル・アートの先駆者。もっとも影響力を持つアーティストのひとり。ポップカルチャーと平和活動のシンボルとなるずっと前から芸術的な表現 方法を開拓し、日本と欧米の双方において永続的な痕跡を残してきた」と説明があるそうです。


2009年9月、プラスティック・オノ・バンドとして、ショーン・レノンや小山田圭吾らと共に音楽活動を再開されたそうです。


オノヨーコさんの著作


『グレープフルーツ・ジュース』 南風椎訳 講談社 1990年 のち同社(講談社文庫)1998年 - Grapefruit (1964年)
『グレープフルーツ・ブック』 田川律訳 新書館 1982年 - Grapefruit: A Book of Instructions and Drawings (1970年)
『ジョン・レノン愛の遺言』レノン共著 川勝久訳 講談社 1981年
『ジョン・レノン/サマー・オブ・1980』 プロデュース・センター出版局 1984年 のち再版1996年 - Summer of 1980 (1983年)
『ただの私(あたし)』 飯村隆彦編訳 講談社 1986年 のち同社(講談社文庫)1990年 - Just Me! (1986年)
The John Lennon Family Album (1990年)
デービッド・シェフ『ジョンとヨーコラスト・インタビュー Love & peace』 石田泰子訳 集英社 1990年
『オノ・ヨーコ 頭の中で組みたてる絵』 淡交社 1995年 - Instruction Paintings (1995年)
YES YOKO ONO (2000年)
『ジョン・レノンラスト・インタビュー』池澤夏樹訳 中央公論新社(中公文庫)2001年
『レノン・リメンバーズ』ヤーン・ウェナー共著 片岡義男訳 草思社 2001年
Odyssey of a Cockroach (2005年)
Imagine Yoko (2005年)
『メモリーズ・オブ・ジョン・レノン』 オノ・ヨーコ編 斉藤早苗翻訳監修 シクロス・サナエ訳 イースト・プレス 2005年 - Memories of John Lennon (editor) (2005年)
『イマジン 自由訳』 新井満訳 朝日新聞社 2006年
『ギブ・ピース・ア・チャンス』 レノン共著 オーヤン・ガハードソン原書編集 斉藤早苗監修 関美冬訳 プロデュースセンター出版局 2007年
『今あなたに知ってもらいたいこと』 幻冬舎 2009年
『今を生きる』 集英社インターナショナル 2014年
『どんぐり』 河出書房新社 2015年


めぐめぐがすごいと思うオノヨーコさんのこと


1子どもの頃に学んだことや経験をすべて芸術という新しい形にして創造され、世界中の人々を驚かせられること

2自分らしい生き方を貫かれ、それぞれの場所でそれぞれの時期に大切な人を大切にして人生を歩まれていること

360年代から現代にいたるまで様々な分野でいつも新しいものを創り続けられていること

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