第28週 教育者 大村はま


はじめに

第28週の教育者は国語教師、国語教育研究家の大村はまさんです。

お生まれとご家族



大村 はま(おおむら はま、本名:大村 濱(読み同じ)さんは1906年(明治39年)6月2日 に横浜市にお生まれになりました。

父親は大村益荒氏。北海道の尋常師範学校の教師を経て、横浜のYMCAの主事をしていた時、関東大震災が起こったそうです。その後、文部省英語教育顧問になったハロルド・パーマーの英語教授研究所に勤務され、その後英語教育とか聖書研究にかかわっていたおられました。ミッションスクールである共立女学校(現横浜共立学園)の幹事から教頭になったかただそうです。

母親はくらさん、北星女学校を卒業していた。

両者クリスチャンという関係で結婚されたそうです。

お母さんのくらは、後に「婦人の友」となる「家庭の友」の創刊号からの読者であり、お父さんは潔癖さが強く、不器用であり、うそが嫌いであったとそうです。

はまさんのお兄さん二人は、10歳と9歳で夭折されています。

お姉さんは英語の先生になられましたが1938年に亡くなられています。

弟さん晴雄氏は、山形高校を卒業、東京都立大学で哲学を教えていたが、応召され。大陸では、語学ができるので、暗号や情報の解読に従事されたそうです。1946年復員されやがて東京都立大学 の教授になられたそうです。

西洋中世哲学、ドイツ哲学、キリスト教神学が専門です。

またはまさんには睦(むつ)という12歳下の妹さんがおられました。2016年6月永眠されています。


子ども時代

はまさんは1913年に横浜市尋常高等元街小学校(現横浜市立元街小学校)に入学されます。

1919年に卒業され、共立女学校に進学されました。

しかしその学校を出ても大学進学ができないことが分かり、14歳の9月に捜真女学校に転入されました。バプテスト派の女学校です。


その学校で川島治子さんの国語教育に影響を受けたそうです。

1924年3月に同校を卒業されます。

1924年、はまは1年間、お父さん働かれたこともあるパーマー英語教授研究所で働かれます。

1925年、東京女子大学に入学されます。

学校では、読書家ではあったが、比較的目立たない人の話の聞き手になることが多かったそうです。


国語教師に

1928年、はまさんは東京女子大学を卒業後[公立高校教員(地方公務員)となられます。

同年から1937年は長野県立諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)で国語の教鞭をとり、国語教育の実践的研究に取り組み始められます。


1938年5月、教育雑誌「同志同行」に論稿「国語筆記帖について」を発表されます。 

1938年から1947年は、東京府立第八高等女学校(現東京都立八潮高等学校)に務められます。

戦後、占領軍の教育指導者講習があり、はまさんは、出席されたそうです。民間情報教育局 (CIE) が強調したのは単元(ユニット)であった。

実践的な、目的意識をもった、まとまりのある授業である。

はまさんは、「やさしい言葉で」という題で行った学習の例を、通訳を通じて話したら、責任者のオズボーン氏は「そうだ、それがユニットというものだ」と認めたというエピソードがあるそうです。

第8高等女学校時代、文部省の事務官が訪ねてきて学習指導要綱の作成委員会に入るようにはまさんに要請があったそうです。

新しいものに興味がるはまさんは、新制中学校に変わったが、同僚は不祥事があったのだろうと疑ったそううです。


1947年から1948年は東京都江東区立深川第一中学校、1949年から1951年は東京都目黒区立第八中学校、1951年から1956年まで、東京都中央区立紅葉川中学校で国語の先生として教鞭をとられます。


1954年5月、「中学教育技術国語科」(小学館)に論稿「国語学習帳について―新しい学習指導には新しい学習帳を―」を発表されます。

1956年から1960年までは、東京都中央区立文海中学校。

1960年から1980年までは、東京都大田区立石川台中学校に移られます。

1972年より「国語教育実践研究発表会」を開催されます。

はまさんは、自他共に許す国語教育の専門家とみなされ、授業の見学者が多かったそうです。

はまの支援者であり、助言者でもある東京都指導主事・東京教育大学教授の倉澤栄吉氏もその一人で、定期的に参観に来られたそうです。

希望しても見学できない人もいたほど人気だったそうです。

はまさんは、その時生徒が見学ずれしないように気を遣っておられたそうです。

ある校長からは「自信過剰」と人物評価をされたそうです。

あまり優秀と目され、管理職からも同僚からもうまく合わなかったそうです。

国立大学の附属学校への異動も考えられたが、付属学校の教員もレベルの高さとプライドの高さもあり、異動することはなかったそうです。


1980年3月31日にはまさんはひっそりと退職されました。

52年間、はまさんはずっと国語の一教師であられました。


国語教育

はまさんは戦後は東京都内の新制中学校で教鞭を取り、新聞・雑誌の記事を基にした授業や生徒各人の実力と課題に応じたオーダーメイド式の教育方針「大村単元学習法」を確立されます。

それに参加した生徒は延べ5000人以上といわれています。

定年退職後「大村はま 国語教室の会」を結成され、日本の国語教育の向上に勤められました。

半世紀以上の教鞭実績を称え、1960年に東京都教育功労賞、1963年には広島大学主催「ペスタロッチー賞(現ペスタロッチー教育賞の母体)」、1978年には日本教育連合会賞をそれぞれ受賞されています。

1982年に勲五等瑞宝章を受章[されています。

鳴門教育大学附属図書館には、「大村はま文庫」として、1995年に寄贈された文献6,300冊、単元学習実践資料約500点、学習の記録約2,000冊などが収蔵されているそうです。

「学習の記録」とは、大村の指導のもとで、書くべきこと、考えたこと、一課の終わりのまとめや感想などを学習者自らが記したノートであり、いったん学習者に返されたあとはまさんのもとに残されたものであるそうです。

2005年のはまさんの死後「大村はま 国語教室の会」を引き継ぐ形で「大村はま記念国語教育の会」が結成され、国語研究の功績が顕彰されるとともに、その実践への学びが続けられています。

はまさんの作文教育


諏訪高等女学校時代の生徒の思い出の中の一つが知られているそうです。

生は「山の朝」という題を指定して作文を作らせた。ある生徒の文章を読んだ。生徒はよく書けたつもりでいたが、先生の発言は次のようなものだった。谷川の水を汲んで食事の支度をする。一応描写はできている。その文章が板書され、直された。言葉だけの清々しさが消され、冷たい水、谷川の音、鶯の声、風など、耳や目に最もぴったり響いてくるものとなった。生徒は屈辱感を感じた。生徒は再び「文の直しについて」という題で、どのように自分が感じ、受け取り、どのように自分を取り戻していくかを書いた。はまは、この生徒がただ、傷ついているだけの生徒ではない、という見極めもあった。


はまは、文房具が大好きであった。ある時セロテープが発売されたが、それを生徒に一部分ずつ使うために、毎週のように丸善に行って、自分で購入した。そのために、自分の新しい傘も購入できなかったというエピソードがあるそうです。

NHKの日本語センターが一般向けに朗読の講座を始めることを知ったはまは、早速申し込んだそうです。自分の朗読をカセットテープに吹き込んでNHKに批評するのだが、講師陣は余りの実力に困ったそうです。また、スクーリングも受けたというエピソードもあるそうです。


大村はまさんの著作


大村はまさんには以下の著書があります。 

『中学作文』1961 筑摩書房
『やさしい国語教室』1966 毎日新聞社、1978 共文社
『やさしい文章教室 豊かなことば正しい表現』1978 共文社
『やさしい漢字教室』1969 毎日新聞社 1981 共文社
『ことばの勉強会』1970 毎日新聞社 1981 共文社
『国語教室の実際』1970 共文社
『教えるということ』1971 富山県教育委員会 1973 共文社
『みんなの国語研究会』1971 毎日新聞社 1981 共文社
『小学漢和辞典』(長澤規矩也と共著)1971 三省堂
『読書生活指導の実際』1977 共文社
『続 やさしい国語教室』1977 共文社
『正しい使い方がわかる学習慣用語句辞典』1978 三省堂
『国語教室おりおりの話』 1978 共文社
『国語教室通信』1980 共文社
『大村はまの国語教室』1-3 1981-1984 小学館
『大村はま 国語教室』全15巻、別巻1 1982-1985 筑摩書房(前述の「大村はま 国語教室の会」の基となった)
『教室をいきいきと』1-3 1986-1987 筑摩書房
『授業を創る』1987、2005 国土社
『教室に魅力を』1988 2005 国土社
『教えながら教えられながら』1989 共文社
『大村はま 授業の展開1世界を結ぶ』1989 筑摩書房
『大村はま・教室で学ぶ』1990 小学館
『[日本一先生}は語る』(原田三朗と共著)1990 国土社
『新編 教室をいきいきと』1-2 1994 筑摩書房
『日本の教師に伝えたいこと』1995 2006 筑摩書房
『新編 教えるということ』1996 筑摩書房
『大村はま 創造の世界』1996 大空社 ビデオ全6巻 2009 DVD全3巻
『三省堂例解小学漢字辞典』(林四郎と共著)1997 三省堂
『私が歩いた道』1998 筑摩書房
『心のパン屋さん ことばの教育に生きる』1999 筑摩書房
『大村はまの日本語教室』 2002-2003 全3巻 風濤社
『教えることの復権』(苅谷剛彦/苅谷夏子と共著)2003 筑摩書房
『教師大浜はま96歳の仕事』2003 小学館
『大村はま講演集』上下 2004 風濤社
『灯し続ける言葉』2004 小学館
『22年目の返信』(波多野完治と共著)2004 小学館
『かけがえのなきこの教室に集う 大村はま白寿記念文集』2004 小学館
『大村はま 国語教室の実際』上下 2005 溪水社
『忘れえぬことば』2005 小学館
『学びひたりて 大浜はま自叙伝』2005 共文社
文献
『大村はま国語教室の探究』野地潤家 1993年 共文社 ISBN 4-7643-0042-7
『優劣のかなたに 大村はま60のことば』刈谷夏子 2007年 筑摩書房 ISBN 978-4-480-86376-8
『評伝 大村はま ことばを育て 人を育て』苅谷夏子 2010年 小学館 ISBN 978-4-09-840119-2

めぐめぐがすごいと思う大村はまさんのこと

152年間一教師を続けられているということ

2その教師生活と並行し、国語教育の在り方を作られたこと

3退職後その国語教育で現在に至るまで日本の国語教育の基礎を作られたこと

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