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「透明」第2話

夢の中で、楓さんは泣いている。泣きながら、こう言う。

「ねえ、わたしたちの関係性ってなんなんだろう? 聡は、いったいいつになったら、わたしのことを恋人にしてくれるの? もうわたし、待ちくたびれちゃったよ。さよなら」と。

俺は、玄関から出ていこうとする楓さんを、なんとかして止めなくては、と思って立ち上がる。「待って」と、俺は言おうとするのだけれど、喉が塞がったようになって声が出ない。追いかけようとすると、どこからか、知らない女の声がする。知らない女の声がこう言う。

「追いかけても無駄よ。どうせ君には、あの人を大事にすることなんてできないんだから」

俺はそのまま、金縛りにあったように動けない。──と、そこで視界が急に明るくなる。

ぱっと目を覚ますと、そこは明るいワンルームで、隣では、楓さんが安泰な顔をしてぐうぐう眠っていた。6時10分。俺はうっすらと額に冷たい汗をかいていた。

―出ていく、って言っても、ここは楓さん名義のアパートなのだけれど。まあそういう細かいことはいいか、夢だから。と、天井を見ながら思う。

なんだろうな、置き去りにされるのはいつも自分のほうだというイメージが俺の中にはあるんだろうな。

そんなことを言ったら、例えば梨沙さんあたりなら「過去になにがあったか知らないけど、聡は、付き合うっていう言葉を、重く捉えすぎじゃない?」とか言うだろうか。と想像して苦笑する。

重くとらえないでいられるなら、どんなにいいだろう。でも。それでも。
下手に「付き合う」などと判断を下してしまったがために、コミュニケーションがぎくしゃくして、いまではすっかり疎遠になってしまったかつての恋人たちの顔を思い浮かべる。

関係性に名前を付ける、ということがどうも苦手だ。一旦、名前をつけてしまったら、その名前に恥じないように振舞わなくてはならない。

あの日、サークルの先輩である梨沙さんが、飲み会に楓さんを呼んだのは、完全な思いつきだったらしい。

梨沙さんは、酔っぱらった勢いで俺の女の子の好みをさんざん告白させたあと「だったら、いい子がいるなあ」と言うやいなや、楓さんに電話をかけて呼び出した。その30分後に現れた楓さんは、「ちょうど、この近くでアルバイトしてて、ちょうど終わったところだったから、よかったあ」と言って笑った。楓さんは、にこにこしているにもかかわらず、なぜか少し「そっけない印象」だった。

それが、楓さんとの出会いで、以降いろいろあって同居するようになるわけだけれど、いまだにその「そっけない印象」は、全然変わらない。

あれは、少し照れていたんだよ。と楓さんが話してくれたのは、ついこの間のことだった。「はじめて会ったとき、聡があんまり好みのタイプだったからさ、ちょっと照れたんだよ」と。

そんなこと、言われなかったら全然わからなかった。楓さんがなにを考えているのかは、だいたい、いつもわからない。

楓さんは、自分のことをあんまり話さない代わりに、めちゃくちゃ人の話を聞くのがうまい。「へえ」とか、「なんで?」とか、適切な相槌を随所に挟んでくるし、要所要所で褒めてくれたりする、そのタイミングが絶妙なのだ。だから楓さんには、いままでだれにも話せなかったいろんなことを、つい全部話してしまいたくなる。

うちに住めばいいじゃない。と、あの日、楓さんは言った。はじめてのセックスのときだって、"いまは楓さんを大事にできる気がしないから、恋人という関係性になることはできない"、と言ったときも「いいよ、聡なら、ぜんぜんいいよ」と言っていた。

ぜんぜんいいよ、って、どういうことだろう。

いろんなことを、全部ひとつひとつ楓さんに確認したくなるときがある。でも、それを確認することで、何かが終わってしまうような気がする。でも、いままで、ほんとうのことがわかってよかったことなんて、一回でもあっただろうか。と思う。

もっとも、さっきの夢の中みたいに、楓さんが泣きながら怒るところなんて、今まで一回も見たことがない。ただ、彼女があんまりいつも物事に無頓着そうにふるまうから、もしかしたら彼女はいろんなことを心の中に抱え込んで、言わないでいるだけなんじゃないか、と勘繰ってしまう。

それでも、と俺は思う。安泰な寝顔を見ながら、楓さんを自分の恋人と呼ぶということは、やっぱり、いまの自分にはどうしても違和感がある。と思ってしまう。楓さんは、俺なんかの恋人になるべきじゃないのだ。

いつだって、俺は、踏み込みすぎて大事なものを壊してしまう。もう少し心の中の整理がつくまで、なにかに深くかかわることはやめておきたい。それが今の時点で持てる最大限の配慮、だった。

それに楓さんは、俺のことを好き、とか言う割に、四六時中、一緒にいたいわけでもなさそうだし。「おたがい、ひとりの時間が長く持てる、こういう生活スタイルっていいよねえ。理想的。最高」とか言うし。

彼女の言う「好き」って、いったいなんなんだろう?

よくわからないけど、おそらく楓さんも俺も、どうしようもなく臆病で、ただ核心にふれないように結論を先送りしているだけなんだと思う。単に、人生の一時停止ボタンを押しているようなものだ。

結論が出ないことを、いつまでも考えていることは性にあわない。俺は、一旦ここまでの考えを打ち消して、シャワーをあびた。切り替えは、子供のころから早い方なのだ。

「ねえ、また、そうやって逃げるの?」と、また、女の声が追いかけてくる。女の顔は見えない。

悪いけど、逃げるよ。逃げさせてもらうよ。と思う。世の中は、逃げ続けることでしか前に進めないようにできているんだから。

心の中がどんなに暴風雨であっても、そんなことはなんてことないですよ、という顔をして、行動を自動化できるスキルを、俺は子どものときから自然と身につけてしまっていた。

世の中は、ものすごい速さで変わっていくのだ。だから、ずっと同じ形なんかじゃいられない。もしずっと同じ形でいたいのであれば、外的要素の変化のスピードを上回る速さで、自分が変わっていかないと追いつかないようにできているのだ。確信はないけど、そんな気がしていた。そう思わないと、やっていられなかった。

↓第3話


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