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「素の自分」であるということ

「ありのままのわたし」と「なんらかの役割を果たすわたし」を両立させるのはコツがいる、と長らく思っていた。

「もし自分の顔(見た目)をどんなものにでも変えられるなら、どうなりたい?」と質問を投げかけられると、わたしはよく「うーん、可能であるならアンジェリーナ・ジョリーみたいな顔になりたいな」とか、答えていた。笑

理由は、なんとなくナメられなそうだし迫力があるから。(実際のわたしの見た目は「迫力」とはかけ離れていると思う)

しかし先日、こちらのnoteを拝読して、ああそうか。その「ナメられないようにしなきゃ」という心の持ち方自体を、やめたほうがいいのかもしれない、という大きな気づきを得ることができました。神田さん、ありがとうございます。

あれ……? ナメるとか、ナメられるってそもそも何だろう? 何なんだっけ?(なにそれおいしいの?)と、いろいろ考えさせられてしまいました。

以下に書くのは、わたしが個人的に思ったこと。

なんというか「ナメられないように」ふるまう、というのは、いわば仮面をかぶっている状態なのだと思う。

その「仮面」というのは、本来の自分の姿とは異なる、どこかから持ってきた出来合いの外見だ。

その「仮面をどこかから持ってくる」過程、そして「見せかけの姿で本来の自分に蓋をする」過程において、自分のなかにある固定観念や思い込みがあらわになってしまう。

つまり「素の自分=恥ずかしい・カッコ悪い・弱い」「だからそういう部分を見せないようにしよう」「なんとなくこういう状態が客観的に見て良しとされているんでしょう?」といった固定観念・思い込みに基づいたものだ、と思う。

でもそれって本当に得策なのだろうか? というと、たぶんそんなことはないですよね。

もっと、相手の視線に振り回されないというか、相手と自分を丸ごと空間ごと包みこむ余白があるといいな。素の自分であることを肯定的にとらえて、自分の見え方にばかりエネルギーを使うのではなく、その分のエネルギーを、相手や空間をとらえることに使えたらいいよね。と思う。

ちなみに、昨日は我が子の「道徳」の授業参観があった。

題材が「ちびまる子ちゃん」の「たまちゃん、大好き」というお話しでして。これ、ちびまる子ちゃんの話のなかで1、2を争う感動回だと思っている(だからこそ道徳の教科書に採用されているのだろうけれど)。

まる子と親友のたまちゃんが一緒にタイムカプセルを埋めようと待ち合わせの約束をするんだけど、たまちゃんがお母さんに用事を頼まれて行けなくなってしまったことからケンカになり、ふたりの関係は果たしてどうなる……?!という話。

これがまあ、泣かせる話なんですよねー。

「ああそうだよねえ、ケンカしたときとか誰かときまずくなったときって、心を閉ざしながらもずーっと相手のこと思い浮かべてしまうよね……」とか、「ああそうだよねえ、怒りに支配されているときって、自分の都合しか見えていなくて相手のことを考えるって難しいけど、自分も相手と同じような体験をした瞬間に、相手への理解がふいに訪れるよねえ……」

とかぼんやり思っていたら、わたしの涙腺はすっかりゆるんでしまい、すーっと涙がでてくるではないですか。我ながらおどろいた。

「いやいやいや、授業参観の途中で、教材の内容に感動して泣く母親とか、どうなの!??」と焦ったわたしは、さりげなく涙をごまかしたのだけれど……。笑

いや、でも考えてみたらべつにね、もっと堂々と泣いてもいいのかもしれないですよね。だって涙腺が緩んだんだからね。ひとが、心がうごいたときに泣くのってふつうのことだしね。(なんの話でしたっけね。笑)

ただ、なんでしょうね。いついかなるときでも「なんでもない素の自分」でいればいい、というわけでもないとも思う。「無防備すぎる」という意味において。

仕事や子育てにおいて必要とされる役割を果たそうとすると、本来の自分自身に蓋をする瞬間がでてくるのは必然だと思っている。なんというか、やっぱり全裸で外を歩いてたら危険だよね、というような。

「なんでもない素の自分でありつつも、必要とされる役割を果たす」コツがあるとすれば、素の自分であることに後ろめたさを持たないことが鍵になるのかな、と。

この辺の匙加減については、もう少し試行錯誤が必要だなあ。




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