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不足してても別によくない?と気づいた

わたしには子供のときからずっと、

・今のわたしには○○が足りない
・もっと○○を手に入れないと

という考えがあった。

この「○○」は、その時によって様々だったけれど、まず最初の記憶は幼児期(4~5歳頃)にさかのぼる。

今振り返ると、とにかく「人からよく見られたい」ということに主軸を置いていた子供だった。

だから「愛嬌」「明るさ」「見た目の可愛さ」などの「これがあればなんとなく人から好かれそうだな」と思われる要素ばかりを無いものねだりしていた気がする。「わたしはこんなに地味だし全然愛嬌もないけど、それらを手に入れることが出来さえすれば!欠落だらけの自分自身がいつか完全なものになるんだわ!そうすればきっとわたしは満たされる!」みたいなことをわりと真面目に思っていた気がする。子供だったからそういう言葉では思ってなかったけど。

また「リカちゃん人形かわいいから欲しいな」というような物欲も、要は「あのお人形を手に入れたらきっとわたしの生活も楽しくなるんだろうな」といった、"欠けているものを埋めたい"という思いから発生していた。

時を経て大人になって、仕事をする必要が生じてからも、この「○○」の中身が「コミュニケーション能力」「技術力」「理解力」などの、能力を表す言葉に置き換わっただけで、「欠けているものを埋めなくては。そうでないと幸せになれない!」という発想は、基本はたぶんずっと同じだった。

「とにかく自分には圧倒的に何かが欠けていて、そのせいで周りの人をがっかりさせたり傷つけたり自分自身が幸せになるのを阻んだりしているのだ」と思い込んでいたし、「何かが欠けているということは、つまりその欠けている穴に何かを入れて埋めなくてはならない」とも思っていた。それは、あえて言語化などする必要もないくらい当然のことだと思っていた。だって「満ち足りている=幸せ」だと信じて疑わなかったから。

ところが。

少し前に「別に不足しててもよくない?」と唐突に思った。

「別に不足しててもよくない?」を言い換えると、「”何かが不足していること”と、”幸せかどうか”ということって別に関係なくない?」ということでもある。

欠けているから埋めないと、と思っていると、まず「欠けている」状態を「よくないこと」と自分自身が無意識のうちに判定してしまうので自己肯定感もがんがん下がっていくし、自分の行動や欲を矯正しようとしてしまうので、自分自身の本来の欲求ややりたいことも見えにくくなる。

欲求が見えなくなってしまうということは、自分自身が心地よいと感じる状態からどんどん遠ざかっていくということを意味する。

それよりも「自分が幸せだと感じること」を一番の優先事項にすることで、自然と行動にも余裕が生まれて、よい結果も出せる気がする。

「そうそう、だからね~、別に欠けていてもいいんですよ。要は幸せだなって思えればね、なんでもいいんですよ。欠けていても、なんでも。」

と、わたしの中の裁判官が言っているみたい。だいぶ適当な裁判官だなあ。

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