「透明」第5話(最終話)
”楓さん、いまどこにいる? いま、電話してもいい?”
画面に表示されたメッセージ通知を眺めながら、聡が、わたしのことを、どうしようもないくらい好きで好きでたまらない、とかだったらよかったな、なんてことを、つい思ってしまう。
そんな世界線のわたしだったら、今みたいに「いま電話していい?」なんてメッセージがきたら、わくわくしながら瞬時に「いいよ」と返信するか、もしくはこちらからすぐ電話をする。きっと。
でも実際はたぶんそうじゃないから。そうじゃないから、聡からなにか連絡が来るたびに、真っ先に「今度こそわたしたちは終わるのではないか」ということを連想して、身構えてしまう。
望んでも仕方のないことだけれど。そもそも、聡がわたしのことを好きでたまらないのであれば、おそらく今のような状況には、なっていないわけだし。
*
「それにしても楓ちゃん、若い女の子が、あんなふうに夜の公園でひとりでお酒なんか飲んでちゃだめよ? 世の中、善良なひとばっかりじゃないんだから。それに、恋人だって心配しない?」
聡にどう返信をしようかと迷っていると、すべて見透かしたようにサキさんがそう言うので、びっくりしてしまう。
「いえいえ、恋人なんて、わたしにはそんな」
「あら、そうなの? でも、好きな人はいるんでしょう?」
「え、どうしてわかるんですか。そんな話、しましたっけ?」サキさんに聡の話をした記憶がなかったので、わたしは驚いた。
「やっぱりそうなのね。ふふ、長く生きていると、なんとなくわかるのよね。そういうものなの」サキさんは、予想があたったのがうれしそうだった。「それで、どんな人なの?」
「よく、わからない人ですね」どう答えるべきかわからないまま、わたしは思ったままのことを答えた。「やさしいのか、やさしくないのかよくわからないし、真面目なのか、ずるいのかも、なんなのか、ぜんぜんわからない人です。それにその人は、残念ながらわたしのこと、そんなに好きじゃないんですよね。ちょうど今そのひとから、電話していい? ってメッセージが届いたんですけど、何の用かな、って」
そう答えたわたしに対して、サキさんは、
「それ、ほんとう? 楓ちゃんの想像の話なんじゃなくて? そのお相手の気持ちは、きちんと確認したことあるの?『わたしのこと好き?』って」
「そんな怖いこと、確認したことないですね」わたしは笑って答える。「でも確認しなくても、だいたいわかりますよ」
「そうかしらね? 世の中、こうだって思い込んでいるだけで、確認したら実は事実と全然違うことなんて、たくさんあるわよ」
「どうでしょう……? 仮に、わたしのことを好きだなんて言われても、信じられる気がしないなあ」
「そうねえ……そういうふうに疑いをかけておけば、気が楽よね。よくわかるわ。信じることって、とても勇気がいることだもの」
「勇気」
「楓ちゃん。もう少し、あなたは、愛されていい存在だっていうことを信じてみてもいいんじゃないの。もちろん、望むような結果にならないかもしれないわ。確認したら、やっぱり駄目だった、ってこともあると思うわ。
でもね、結果はどちらでもいいのよ。駄目かもしれなくても信じて飛び込むこと、それ自体が、きっと、あなたを今までとは違うところへ連れて行ってくれるかもしれないわよ」
「いつもと違うところ、ですか」
そのとき、手元のスマートフォンが震える。
「あ、電話だ」
「彼からね」すべてお見通しよ、と言わんばかりの笑顔でサキさんは言う。
「とにかく、健闘を祈るわ。私はこれで帰るわね。また今度、お茶でもしましょ」
「はいぜひ! また!」
「大丈夫。たぶん、あなたが思っているより、世界ってずっと優しいわよ」
*
大丈夫。まあ、なんとかなるでしょう。
聡に、別れを告げられても。わたしはたぶん、大丈夫。
わたしは儀式のように自分に言い聞かせつつ、家に向かって歩みを進めながら、通話ボタンを押した。
「もしもし、どうしたの」
「もしもし楓さん? ねえ、なんなのあれ!」
聡の、あまりにも無邪気な明るい声が電話越しに飛び込んできて、わたしは一気に全身の力が抜ける。
「なにが」
「何って、いま、ひさしぶりに楓さんちに帰ってきたらさ、なにあれすごい、本格的な書道の下書き? みたいなのがいっぱいあるんだけど。あれ、もしかして、ぜんぶ楓さんが書いたの?」
「そうだけど」
「え! すごい。いつ書いたの? っていうか楓さん、あんな特技隠し持ってたの? なんで秘密にしてたの、いままで」
ひさしぶりに電話越しに聞く聡の声は、いつもより低音が甘く響いて、不覚にも、どきどきしてしまう。安心感からか、少し涙腺がゆるむ。たかが、こんな電話くらいで。こんな電話くらいで涙腺がゆるんでいることを悟られないよう、わたしはすこし声を固くする。
「なんでって、聡に関係ないでしょ」
「え、なんか怒ってる?」
「怒ってない」
「え、絶対、なんか怒ってるでしょ」
「怒ってないよ。ていうか、秘密にしてたわけじゃないよ、なんでって言われても……そんなに、たいした特技だと思ってなかったし。っていうか、聡は、もう大丈夫なの? 地元で済ませたかった用事っていうのは片付いたの?」
「そう、両親に就職の報告もできたし……あと、それ以外にも、いろいろ、今まで気になってたことが片付いたんだ。ケリがついたっていうか」
「そう、それは、よかったですね……」
「え、ほんとに怒ってない?」
「怒ってはない。ちょっと、話すのが久しぶりで、照れてるだけ」
「なんだ」聡は、少し安堵した声で言った。「いや、それならいいんだけど」
「それより、なにか急ぎの用があって、電話くれたんじゃないの? いまのが用件なの?」
「用件っていうか、その」
「うん」
「どこから話していいかわかんないんだけど、結論から言っていい?」
「え、なに」
「ごめん、楓さん、ずっと話さなきゃいけないと思っていたんだけど」
「え、なに、こわい」
「なにが」
「だって、その前置き、怖いよ」
「ちがう、怖くないから。聞いて。あのさこれからは、恋人として、近くにいてくれませんか。っていうか、付き合ってください」
「え」
いま、なんて言った?
あまりの衝撃にびっくりして、わたしは立ち止まる。
わたしは、このまま、ふたりの間に今あるものが、少しずつ終わっていく展開しか、想像していなかったから。
終わることばかり恐れていて、新しく何かが始まる未来なんて、わたしには描くことなんてできていなかったのに。
しばらくの沈黙のあと、わたしは答える。
「え? 聡は、いいの? それで」
「そう。いろいろあって。でも、ちょっと、これだけは、今言わなきゃって思って」
「わたしのこと、大事にできる気がしない、んじゃなかったっけ?」
「そうだったんだけど、なんというか、その呪いが、解けたんだよね。だから、大事にできる気がしてきた。っていうか、大事にする。このあと、詳しく話すから」
あいかわらず、聡の話はぜんぜんわからない。このあと詳しく話す、って一体、なにを詳しく話してくれるんだろう? 見当がつかなすぎて、くらくらする。めまいがする。
「ねえ、聡」
「はい」
「ちょっと、わたしの質問に簡潔に答えて」
「はい」
「わたしのこと、好き?」
「好きだよ」
「え」
「好きに決まってる」
「ええ?」
「なんで、そんなびっくりするの」
「うそだ」
「うそじゃないよ」
「だったら、どうして、今まで好きだって言ってくれなかったの」
「え、言ったことなかったっけ?」
「ないよ」
「そっか、それはごめん。俺、楓さんのこと好きだよ。好きに決まってる。そうじゃなかったら、こんなふうに慎重になったり真剣に悩んだり悪夢にうなされたりしない」
「なにそれ。初耳なんだけど。なに? 悪夢にうなされるってなに?」
「ここんとこ、毎晩うなされてた」
「そうなの……? え、どんな内容の悪夢なの」
「楓さんが、泣いて怒って出ていく夢。っていうかこの話、ちゃんと話すとすごい長くなるから、顔見て話したい。いまどこにいるの? っていうか、早く会いたい。家の近く? そこまで行くよ」
「え? いや、大丈夫だよ、いま、公園の先にあるガソリンスタンドの横を歩いてるところだし、もうすぐ着くから……えっと、なんなのほんと。どうしたの」
「どうもこうもない。ほんと、そのままの意味だよ。信じてよ。今更、信じらんないかもしれないけど。ちょっと電話じゃむり。話したいことがすごいある」
わたしは、聡の言葉を無視して聞く。
「え、わたしの、どこらへんが好き?」
「どこらへんって……いっしょにいるとすごい落ち着くし、あとは、わかんない。どこが好きとかわかんない。全部。全体的に」
「雑だよ。全体ってなにが」
「性格も、雰囲気とか声とかも、あと、顔?」
「顔!?」
「まあいいよ、とにかく、全部」
「もうさ、ほんと、意味がわかんないよ……」
ほんとうは、ずっと好意を伝えてもらえるのを待っていた。ただ、聡がわたしのことをいつ見放してもいいように、はじめから、何も望まないふりをしてきただけだった。
途端に、眼球の奥がつんと熱くなって、視界がぼやけた。涙腺がゆるくなって、たぶん、いまわたし、鼻を真っ赤にしてるんだろうな、なんて思う。なんだ、わたしって、泣けるんじゃん。泣きたい、という感情なんて、とっくの昔にどこかに置いてきたかと思っていたのに。
「え、待って。泣かないでよ」
「泣くよ。意味がわかんないもん、だって。え、だったら、いままでの、この、謎の期間はなんだったの? 謎すぎ。意味がわかんない」
「ごめん」
「だって、いっつも、わけわかんないことばっかり言うから。わたしのことが、そんなに好きじゃないから、大事にできる気がしない、って意味だったんじゃないの? 違うの? 考えてみたらさ、なんで、わたしのことが好きなのに、大事にできなかったの? 意味がわかんなくない?」
「ごめん、だから、大事にする」
「……」
「今日から、っていうか、いま、この瞬間から、めちゃくちゃ大事にする」
「……それはさ、なんでなの? なんで、急にそうしようと思ったの? わたしに、意外な特技があったから?」
「は?」
「わたしが、特にやりたいこともなさそうで、なに考えてるかわかんない女で、いままではちょっと見下してたけど、あ、こいつにも特技があったんだなーやるじゃん、だったら彼女にしてやってもいいぜ、ってことであってる?」
「ちがう、ぜんぜんちがう、ひとつも合ってない」
「もうやだ、こんなんじゃ嫌われる」
「嫌わない。こんなことで嫌うわけないよ」
「わたしは、言っとくけど、面倒くさいよ? たぶん、聡が想像してるより、1億倍くらい面倒くさいよ?」
「いいよ、面倒くさいことやろう? これからは。俺も、いままで言ってなかったこと、ぜんぶ話すから。聞いて。楓さんも、なんでも話して。全部」
何も言えないまま黙るわたしに、聡はさらに言う。
「楓さんのこと、失いたくないよ。いてくれないと嫌だし。そういう人のことを恋人って呼ばなくて、他になんて呼ぶんだろうって、やっと自然と思えるようになったんだ。ほんとごめん。待たせて。いままでの、この期間はなんだったんだって思うよね。ちゃんと、このあと、そう思えるようになった経緯とか、そもそも、なんで今までそう思えなかったのか、とか全部説明するから」
「いいよ」わたしは笑った。「もういいよ。聡がそれでいいって思ったんなら、わたしは、なんだっていいよ。聡なら、なんだっていいんだよ初めから」
「でた。その、俺ならなんだっていい、っていうやつ」
「とか言いつつ、わたし、聡が、そう言ってくれるの、待ってたんだと思う」
「うん」
「つきあって、って、聡のほうから言ってくれるの、待ってたのかもしれない」
「かも、なんだ?」
「わたしは、いっつも、自分のことがいちばんわかんないよ」
"わたしたちはそのうちいつか終わるかもしれない"、と思った、さっきの感覚が蘇る。
でも、それでもいい。いつか終わりが来るとしても、あるいは聡がやさしいのかやさしくないのかも、真面目なのかずるいのかも、そんなことも全然わからなくても、「今、この人が好き」という、それがすべてだった。光が強くて、まぶしすぎて搔き消されてしまう。
「どうしたの、何笑ってるの」聡が言う。
「ふふ、なんでもない」わたしは答える。「続きは、帰ってから話そう」
「うん、じゃ、またね」
聡の声を見届けたあとわたしは、電話を切って、その携帯をしばらくぼんやりと見つめる。そして、もう聡にはわたしの声が聞こえなくなったことを確認してから、小さな声でわたしは試しに「さよなら」と呟いてみた。それは、いつか訪れるかもしれない聡とのさよならではなく、いままでのわたしたちにさよなら、なのかもしれなかった。
コンビニの前を通り過ぎて、交差点の信号が赤から青に変わったのを見届けて、大きな道路を横断し、住宅街に入って、3つ目の角を曲がって、放課後の小学生の子たちが自転車で走り去るのとすれ違って、そのまま、まっすぐ、20歩くらい歩いて、階段を2階まで上がったら、部屋に着く。到着してしまう。どうしよう? こんなとき、どんな顔をするのが正解? わからないな。わたしはなぜか、「わたしも、就職活動をしてみようかなって思うんだよね」という話を、聡にするところを想像する。聡はなんて言うだろう?「ほんとに? 面接の練習とか付き合うよ。あと、エントリーシートの書き方とか、もう俺すごい研究したから、なんでも聞いて」とか言いそうだな、というところまで想像して、いや、いま、このあとする話はたぶん、それじゃないだろうな、どうしようかなあ、どういう顔をしよう? まあいいや、わかんなくていいや、と思いながらわたしは、勢いよく、とりあえずは何事もなかったような顔で、玄関のドアを開ける。
(了)
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