見出し画像

子供に「私みたいになってほしくない」と思っていた話

私は子供の時、ぜんぜん泳ぐことができなかった。

「え?息継ぎ?どういうこと?」
「こんなにがんばっているのに5メートルしか進まないんですけれど?」みたいな状態だった。だから、子供の頃の水泳の授業に、あんまりいい思い出がない。

水泳教室に通っていた子はみんな泳ぎが上手で「そういう人はいいよね」と思っていた。しかもその感情が「嫉妬」であることに気づかず、私には関係のない話だと思っていた。

大人になって、急に平泳ぎができるようになった。26歳のときのことだ。

夫と一緒に近所の市民プールによく行くようになって、そこで夫から丁寧に教えてもらったら、できるようになった。

私は気づいた。「考えてみれば、子供時代こんなふうに丁寧に泳ぎ方を教えてもらった記憶がない。」ということに。

「そっか、だから泳げなかったんだ。もし私が子供時代に水泳教室に通っていたら、泳げるようになっていたかもしれない」「将来子供ができたら、水泳を習わせたいな」と私は思った。

子供が産まれたばかりのとき「子供が、自分のようになってしまうのではないか」というのがひたすら怖かった。

知識を増やさないと!と思った私は、育児書を読みあさり、Eテレの「すくすく子育て」を毎週録画し、近所の子育て支援センターに足繁く通い、子育て講座が開かれれば聞きにいった。

子育て講座では「小さいうちから成功体験を積むことで、子供の自信や自己肯定感が育まれる」みたいな話とか、「小さいうちから幅広い経験をさせてあげることが大事」という話をよく聞いた。

息子が3歳になったころ、子育て支援センターのママたちとの会話で「習い事」の話題が出るようになった。
「○○ちゃんち、習い事始めたの?」「そうそう、先生もすごくやさしくて、ママと離れても全然平気だよー」といった会話を聞きながら「うちの子も3歳になったし、そろそろ習い事に通わせてみようかな?」と私は思った。

我が子には、私みたいに運動に引け目を感じるような思いはしてほしくなかった。そうだ、小さいうちから苦手意識を持たないようにスイミングスクールに通わせれば、きっと私みたいな思いはしなくてすむはずだ。

「ねえねえ、プールやってみたい?」と息子に聞いたら「やるー!プール好き!」と答えた。迷わず私は体験レッスンに申し込んだ。当日担当してくれたのはやさしそうな女の先生で、息子も楽しそうに参加していたので「これなら大丈夫」と思った。

そのうち、兄のプールの様子を見ていた下の娘も「プールやりたい」と言ったので、娘も幼児クラスに通うようになった。

「幼児のうちからスイミングを始めたのだから、きっと水泳も好きになって、そのうち泳げるようになるだろう」

と安易に考えていた私の予想は、その後、外れることになる。

息子は、レッスンの内容が「水慣れ」とか「水遊び」だったときまでは楽しそうに参加していたのだけれど、その後本格的に泳ぎを習うコースに入ったら「行きたくない」「べつに泳げるようになりたくない」と言って行くのを渋るようになった。

娘は、お兄ちゃんの様子を見学していたときは「やりたい」と言っていたけれど、実際に参加してみたら、先生に水をかけられるたびに大泣き。それでもしばらく先生になだめられながら参加していたけど、幼稚園の水遊びすら「水が怖い」と言いだしたのをきっかけに、スイミングスクールは退会することにした。

「水遊びが好きなことと、泳げるようになることは、関係ない」「本人の意思が最も重要」という、今思えばごく当然のことを私は知ったのだった。

そもそも習い事は、私が促すんじゃなくて、本人がやりたいって言ったときに本人がやりたいことをやるのがいいな・・と思った。

ちなみに「子供の時、水泳を習ってたらよかったなあ」と前に母に言ったら「そうかあ、習わせてあげてたらよかったねえ。幼稚園のとき、1回体験レッスンに行ったこともあったんだけど「やりたい?」って聞いたら、あんまり興味ない、それよりピアノのほうがやりたいって言ってたんだよね」と言っていた。たしかに子供時代のわたしならそう言うだろうなと思う。母は、私の意思を尊重してくれていたのだった。

私が子供の時泳げなかったのは、「スイミングスクールに通っていなかったから」ではなく「そんなに泳げるようになりたいと思っていなかった」からだった。

今、「子育ての方針」というものがない。

言われるがまま子供の遊びに付き合ったり公園に行ったり、一緒にケーキをやいたりしている以外、なにも考えていない。

「えっなに?あのとき私が真剣に読みあさった育児書とか録画して見返した育児番組ってなんだったの?」と思うくらい、全部、内容を忘れてしまった。

今ならわかる。育児書を読み漁ったり、「子供にスイミングを習わせたい」と思っていた頃の私は、子供のことをすごく愛してはいたけど、子供自身のことを、全く信用していなかったのだ。

(「育児書を読んだり、子供に○○を習わせたい」と思っている人を批判しているわけではないです。あの時の私がそうだった、という話です)

この子たちは!親である私がサポートしてあげないと!そうじゃないと大変なことになる!と、勝手に決めつけていた。

失敗することで気づくことだってあるのに、その機会すら初めから奪おうとしていた。

それに、そもそも「私のようになっちゃいけない」というのもおかしな話だ。日本語として、おかしいのだ。だって、子供は「私ではない」から。

子供の人生は、私の人生じゃないし。そもそも、今は令和だし。私が産まれたのは昭和で、時代が違うし。
大好きだから「幸せになってほしい」と私は思っているけど、それはあくまで私の願いだ。子供の願いではない。私がなにを考えているかということは、子供には関係がないのだ。

親が考える「こんな子に育てたい」という理想なんて、子供にとってはただ迷惑なだけかもしれない(子供のとき、私はそう思っていた)

我が子には、失敗をする権利があるし、そもそも「成功」とか「失敗」という概念もいいかげんなものだ。私からみた成功が、他人にとっての成功かどうかがまずわからないし。

我が子たちにとって、私という人間の影響力はとても強いと思う。

今までの人生、そこまでの影響力を他人に対して持ったのが初めてなので、ようするに慣れていないのだ。「影響力を持つ」ということに対して。

子育ての方針はないけれど、いま私にできることは「子供が産まれる前と同じように、自分が好きなことをして楽しく生きること」と、「失敗はいけないことじゃないんだよ、失敗してもいいんだよ、ということを伝えるために、私自身が明るく失敗しまくること」だと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?