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かなえてよ、ドラえもん。

久しぶりに実家へ帰ると、私の使っていた学習机は埃をかぶっていて、どこに何をしまっていたのかもあまり思い出せなくなっていた。

持ち主のいなくなった学習机は、ただの物置同然かもしれない。

これから先、しばらくは帰ってこれないだろうと、私は引き出しを次々あけて思いつきの整理整頓に取りかかった。

使い捨てカメラのフィルムを現像したアルバム、中学のときに美術の授業で彫ったはんこ、修学旅行で買った地主神社のお守り、異人館で作ってもらった香水――。デスクワゴンの真ん中の段には、大事にしすぎて使わずにとっておいたままのレターセットや、ほとんど新品のリラックマのメモ帳なんかも出てきて、私にとってこの古ぼけた学習机は宝箱みたいなものだった。

ワゴンの一番下の段には、裁縫道具セットやファイルの束など、特にかさばるものが詰め込まれている。私はその中から、古い年賀状のファイルを見つけた。

中学から高校までの年賀状が、すべてその1冊に収まっている。今ではすっかり年賀状を書かなくなったけれど、当時はスマホもLINEもなく、みんなガラケーだったし、メールと年賀状の両方で友達とお正月のやりとりをするのが当たり前だった。

懐かしいな、と何気なくぱらぱらめくっていると、ほとんどの送り主とは、中学や高校を出てから一度も会っていないということに気がついた。中学で一番仲の良かった侑華ちゃんとまどかちゃん。高校時代の親友、洋子。彼女たちとは卒業してから何となく疎遠になってしまい、今では音信不通だ。ほかの友達とは大学のときにFacebookで繋がったものの、途中からみんな何となくFacebookからフェードアウトしはじめて、更新を続けているのは地元のとあるスポーツチームで活躍する友紀(ゆうき)ちゃんだけになっている。

友紀ちゃんといえば、私は彼女からの年賀状を1枚だけ持っている。彼女は高1のときに私と同じクラスで、お互い名簿番号が近く、友紀ちゃんは背の低い私を可愛がってくれた。1度だけ彼女と地元のイオンで遊んだことがあるけれど、クラス替えをしてからあまり会わなくなり、大学時代にFacebookで繋がったとき、彼女には既に3桁にのぼる数の友達がいた。ちなみに、友紀ちゃんのFacebookには今では800人ほどの友達がいて、何だか「友達」と呼ぶには恐縮してしまうほど、彼女は雲の上の存在になってしまった。

年賀状のファイルは、めくるたびに、今どこにいるかもわからない元クラスメイトの名ばかり出てきて、あたりさわりのない年賀状の定型文が並び、手書きのイラストや消しゴムはんこの干支なんかが静かにこちらを向いている。

私の年賀状を今でも大事に持っている友達は、果たして何人いるだろう――。ふと、そんなことを考えた。たぶん、このファイルに残っている友達全員に年賀状を送ったはずだが、自分がどんな年賀状を書いたのかは全く記憶に残っていなかった。

会いたいような、会いたくないような。

ぱらぱらとページを何度も行ったりきたりして、私は何となく、部活が楽しくて仕方がなかった中2の頃に遡ってみた。

すると、また懐かしい名前を見つけた。中学で最初に声をかけてくれた齋藤だった。

彼に声をかけられたとき、私は自分の席で縮こまりながら、ダレン・シャンの新刊を夢中になって読んでいた。当時人見知りをこじらせていた私は、初対面ばかりのクラスで、まだ友達が一人もいなかった。齋藤は、そんな私の右隣の席に座っていた。

「なあ、何読んでんの?」

齋藤はいつも、同じ小学校出身のクラスメイトから「うざい」と陰口を叩かれていたし、そのとき本の邪魔をされた私もやはり、齋藤のことを少し「うざい」と思った。私は返事をする代わりに、分厚い単行本の表紙をちらりと見せた。齋藤はタイトルを見て、ふーん、だとか何か言って、本から目線を外さないままの私にためらうことなく話しかけてきた。一方私はというと、急になれなれしく話しかけてきた、このよくわからないクラスメイトに戸惑い、男子に苦手意識があったのも相まって、なかなか顔を上げることができなかった。

結局、びくびくして下を向いたままの私に「シカト」された形になった齋藤は、ふてくされた様子で椅子にふんぞり返りながら、「✕✕小の奴って、ヘンな奴ばっかだなぁ」と呟いた。

その後しばらくして、私は何とか数人の友達を作り、ほかのクラスメイトとも挨拶ぐらいは交わせるようになった。齋藤とはしばらく席が隣同士だったし、それぞれ仲良くなった友達が一緒だったこともあって、いつのまにか自然と話せるようになった。

私と齋藤は、お互い読んでいる本のことだとか、当時私もみんなも見ていた「エンタの神様」や「レッドカーペット」の話なんかをして、よく盛り上がった。夏にはみんなで齋藤の家まで自転車で押しかけ、その年の冬にダレン・シャンの漫画が出たときには、それをいちはやく手に入れた齋藤から借りて読ませてもらった。

そして、齋藤は定期テストのときには毎回点数のことでつっかかってきて、相変わらずうざかった。テストの総合得点は、52人いる学年のなかで、いつも私が3位で齋藤は4位だった。いつも10点程度の差だったけれど、理系科目なら齋藤のほうが私よりも成績がよかった。

齋藤は卒業式の日に「ドラえもんを作ってやるよ」と軽口を叩いて、中1の頃から憧れ続けていたというロボコンへの出場を目指し、地元の工専へ進んだ。

だけど、ドラえもんはまだ誰にも開発されていない。

齋藤のFacebookは、彼が工専を中退した2年前の投稿を最後に更新が途絶えている。Facebookのプロフィール写真は、恐らく飲み屋で友達に撮ってもらったのだろう。ふざけた表情をしながら、ロックバンドのボーカルよろしく、手の甲をこちらに向けたメロイック・サインのようなポーズを掲げている齋藤が写っていた。

「吹部ガンバレ よくわかんねーけど」

年賀状のへたくそな字に、思わず目が留まった。齋藤からの年賀状には、そんな一言が書かれていた。

「吹部」とは私の所属していた吹奏楽部の略称だ。中2の頃、吹奏楽に熱中していた私ではあったが、中3の夏、中学最後の県大会を終えるとすぐに部活を引退してしまった。建前は「受験勉強のため」だったけれど、実際のところは、私が中3になる少し前から、私と同じ学年の友達グループが真っ二つに別れて対立していて、そのぎすぎすとした人間関係を、私は県大会が終わるまでひたすら堪えていた。そして県大会が無事終わると、私は逃げるようにして部活を辞めた。

齋藤は、3年の夏に引退するまでずっとテニス部だったし、吹奏楽には全く興味を示さなかったから、さすがに吹部の内情まで知らなかったと思う。「よくわかんねーけど」と鉛筆で書かれた齋藤の字は、いかにも男子中学生らしいあどけなさや拙さがにじみ出ていて、他の男子の字と似たり寄ったりだった。

彼からこの年賀状をもらった当時、自分がどんな感情を抱いたのか、今ではもう思い出すことができない。恐らく、他の年賀状のよくある定型文のように、深く考えずにさらっと流してしまったのかもしれない。

ただ、どこか投げやりな物言いはいかにも齋藤らしいし、初対面で私にシカトされても3年間仲良くしてくれたあいつのことだ。齋藤、お前、ホントうざいけどいい奴だったよ。「ガンバレ」って、お前だってドラえもん作れよ、四次元ポケットなんてなくてもいいからさ。

目から涙は出なかったけれど、心のなかで私は泣き笑いしていた。

私にとって、この年賀状ファイルが記録する中学から高校の6年間は、人間関係が一番厄介で、ときどき本気で死にたくなるほど辛くて、楽しいことよりも憂鬱なことのほうが、ずっとずっと多かった。仲良しの友達よりもうわべだけの関係のほうが多くて、その結果が、地元に帰っても、友達がいまどこで何をしているかもわからない、今のこの状況だ。そう言えば、私は嫌いな子に会いたくないからと、地元の成人式には参加しなかった。

でも、中学高校のあの6年間は、会おうと思えばいつでも友達に会えたし、新しい友達を増やすきっかけは学校のどこにでもある、そんな時代だった。

昔は、高校を出て10年もすれば十分大人になれると思っていた。なのに実際のところは、変わったのは髪の色や化粧の有無、服の好みくらいで、周りの人間関係と地元の風景ばかりがどんどん変わっていった。

いくら年をとろうが衰えようが、私の心はそんなに年をとらず、誰かに置いてけぼりにされたわけでもないのに、何だかひどく寂しい気持ちが、大きくごろんと心の真ん中に横たわっていた。私はその塊を打ち砕くことも、無視することさえもできず、ただ持て余すばかりで途方に暮れている。

どこで何を間違ったのか、そもそも何を後悔すれば良いのかもわからないような事態に、私は、あーあ、としょげた声を漏らさずにいられない。

ねえ、齋藤。やっぱりドラえもんに四次元ポケットはつけといてくんないかな。タイムマシンかどこでもドアもあるといいんだけど。

私は、記憶のなかの齋藤に呼びかけてみた。 お前がどこで何してんのか、もうわかんねーけど。

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