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オレンジのベール

「…終わらせましょう」
夕日が消えても夜の闇が辺りを包むといったこともなく、街の明かりで照らされた彼女の顔はそれはもう、泣きたくなるほど綺麗だった。
…いや、泣きそうになっているのは別の理由だと、本当はわかっている。
「…もう、だめなんですか」
口からこぼれるように出た声は掠れていて、彼女は困ったように微笑んだ。
ずっと前から予感はしていた。
ただ。口に出してしまえば、その瞬間終わってしまうだろうと、わかっていたから、いつも耳にまで響くような、過剰な鼓動を抱えて笑っていた。
「…けいこさん」
縋るように名前を呼ぶ。今の俺はきっと情けなさの塊で、見苦しい以外の何者でもないということは、わかっている。
今にも泣きだしそうな俺に通行人の怪訝そうな視線が降り注ぐ。
「…ごめんね」
ようやく彼女は口を開いてくれたけど、それは俺の求める答えでは決してなかった。
九歳年上で、夫も子どももいる彼女との出会いはとても平凡で、それでも俺にとっては特別で運命の出会いだった。
これが世間一般でいう不倫だということは間違いない。
俺たちの密会のような逢瀬が正しかったわけではないし、そもそもこれは知られてはいけない、簡単に切れるような縁だ。

いつかは、消えてしまうような。

「ごめんだなんて言葉が聞きたいんじゃない…」
駄々をこねるような俺の言葉に対して返されたのは、さっきと変わらず困ったような、あやすような笑みで、やはりもう彼女とはいられなくなるということが分かってしまって。
「ああもう…!」
思わず悪態をついて俯くと、ふと手が頬に添えられた。
「…ごめんね。私がもっと分別のある大人だったら、こんなことにはならなかったのに」
慈しむようにするりと頬を撫でたその手に、告げられた言葉に、とうとう俺はこらえきれなくなってしまった。

ひとつふたつと、涙が頬を伝ってどこにも届くことはなく地面に落ちる。
まるで俺の想いと一緒。
泣き始めたら止まらなくなって、ぐすっと鼻を啜った。

「…けいこさんはずるい」
「…うん」
「けいこさんは嫌な大人だ」
「…うん」
「…けいこさんはせこい」
「…うん?」
「…けいこさんはいやらしい」
「ちょっと!」
けいこさんはパッと顔を赤面させて、俺をにらんだ。
そんな、思わずあらわれた、俺が好きないつも通りの彼女が、こんなときでもどうしても尊くなってしまって。

「…好きです、けいこさん」

ああ、もう、どうしようもないくらい好きだ。

「好きなんです。俺は、あなたが、好きで好きで仕方ないんです」
言葉が零れ落ちる水のようにあふれて止まらない。
「…本当に、どうしてもだめなんですか」

「もう、終わりなんですか…?」

涙が止まらない。もう死んでしまいたい。
今ここで世界が終わってしまえばいいのに。
一番欲しいものが手に入らないならば。
願っても願っても、祈りが届かないのならば。

「…ねえ」

不意にけいこさんが口を開いた。
「あなた、空が好きだったわよね」
少し怪訝に思って俺は顔を上げた。

「空というか、雲の模様が好きなのよね」
ふと脳裏にけいこさんと並んで歩いた道のりが浮かんだ。
「特に夕方の空が好きで、珍しい雲を見つけては教えてくれたわ」
そこはちょっと遠くの坂道で。
「私は全然見つけられないのに、あなたはどんなに小さい雲でもすんなり見つけて。何故か結婚式ごっこまで往来の真ん中でやっちゃったわよね」
そう言ってけいこさんはいたずらっぽく微笑んだ。
そうだ、夕日に照らされてオレンジ色に輝いた薄いベールのような雲がとても綺麗で。新郎新婦の真似をしてふざけあった。
「私はそうやって見つけた雲の報告をしてくれるあなたの顔が好きだったの。いいでしょって自慢するように笑ってた顔が」

けいこさんはふと目を伏せた。その時を思い出すように。

「…私とあなたの関係は人に言えるものではないし、やはりここで終わらせるということに変わりはないわ」
そして顔を上げ、きっぱりと意志を持った目で俺を射抜く。
「いつか、私も年を取って死ぬし、あなたのことも忘れてしまうかもしれない」

でも、とけいこさんは言葉を紡ぐ。

「私きっと、あなたの得意げで愛おしいあの顔だけは死んでも忘れない」

そう言って、歯をむき出して笑った。彼女本来の笑い方で。俺が好きな笑い方で。

ああ。
もう。
そんなにかっこつけていうことじゃないですよ。
ちょっと涙目じゃないですか。
まったくさあ。

「…もう、なにも言えなくなっちゃったじゃないですか」

その時、俺の涙は決して止まってはいなかっただろうけど、最後の強がりを集めて笑ってやったさ。

だって、最後の密会で、けいこさんだけが格好つけて、俺はダサいなんて嫌だから。

だからもう。

「…ほら、行ってください。ご主人と息子さんが家で待ってますよ」
もう彼女と会うことは二度とないだろう。
もし会ったとしても、その時は言葉も交わさずに通り過ぎるだけだ。
だって俺たちの関係は秘密なのだから。
「…ごめ」
「最後くらい謝らずに別れましょう」
彼女の言葉を遮って俺はにっと笑った。もう涙は流していない。
驚いたように少し目を見開いた彼女は、やがてくしゃりと顔を歪めてーーー笑った。その頬にいくつもの大粒の涙がつたう。

「…そばにいてくれて、ありがとう」

彼女はそう言って、少し目を伏せて涙を流し続け、やがてくるりと踵を返し、一度もこちらを振り向くことなく帰っていった。
彼女の小さな背中が道の角で消えるのをずっと見つめながら、小さくつぶやいた。
「…最後キスぐらいしとけばよかったなあ」
脳裏に彼女との思い出がいくつも浮かび上がる。
初めて会った大学間際の道。
彼女を好きになった水道橋。
そして、あの坂道。
「…あーあ。終わっちゃった」
口に出すと、やはり悲しくなって、また泣いた。

ねえ、けいこさん。
これからしばらく俺はぐずぐずと未練たらしくして、
そして立ち直って、
いつかは俺も結婚するでしょう。
そのとき、花嫁のベールを被っているのはあなたじゃない。
それでも、あの日あの瞬間、美しいオレンジ色のベールに包まれたあなたの笑顔はきっと死んでも忘れられません。

「…好きだったんです、けいこさん」

終わり


なんか一日で書き上げた恋愛(?)小説。

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