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学制の公布(1872年 明治5年)

今回は日本の公教育制度のはじまりである「学制」について考えてみます。

学制は1872年(明治5年)に公布されました。文部省はその前年である1871年(明治4年)に設置されています。ちなみに、2022年は「学制150周年」ということで、全国各地にある「学制の年に開校した学校」が「150周年」を迎え、周年行事が全国で多数開催された稀有な年となっています。

学制は、学校制度はアメリカ、教育行政はフランスをそれぞれモデルにして作られました。学校制度については、小学・中学・大学の3レベルからなる、単線型学校体系を採用しました。教育行政では、全国を8つの大学区に分け、各大学区を32の中学区に分け、各中学区を210の小学区に分けるという大学を頂点とするピラミッド型の学校制度です。最小単位の学区は人口600人を基準としたため、計算上、全国で5万校を超える小学校を設置するという、当時にあっては、極めて壮大かつ野心的な教育計画であったそうです。2019年(令和元年)の小学校数が19738校(文部科学統計要覧令和2年版)であることを考えると、現在の少子化を考慮に入れても、その計画の熱量には驚かされます。

では、実際はどうだったのかと言うと、学制から3年後の1875年(明治8年)には、小学校数は24303校(『日本近代教育史時点』より)となっています。しかし、これはすべて新設の学校というわけではなく、国宝でもある旧開智学校校舎(明治9年完成)のように洋風を象徴する建物も一部ありますが、そのほとんどは、江戸時代に盛んだった寺子屋の建物をそのまま使用したり、民家を借り入れたりしたものであったそうです。教員も多くは寺子屋での先生であった師匠がそのまま横滑りしたり、明治維新で失業した武士、読み書きのできる僧侶や神官などがその職を担ったそうです。ちなみに、武士向けの学校であった藩校の多くは、地方の中学校に転換されました。

学制においては、小学校の設置が優先されていました。小学校は、修業年限がそれぞれ4年の下等小学と上等小学からなり、等級制が採られました。
教科目としては、下等小学では、つづり字、習字、単語、会話、読本、修身、書とく、文法、算術、養生法、地学大意、理学大意、体術、唱歌が置かれ、上等小学には史学大意、幾何学罫画大意(「幾何学罫大意」と書く文章もある)、博物学大意、化学大意が置かれたそうです。

しかし、小学校の運営のための教員は不足状態であったため、教員養成が急務でした。学校制度はアメリカをモデルとしていたので、政府は教員養成の専門家としてアメリカからマリオン・スコットを招聘し、東京師範学校を学制と同じ年である1872年に設立しました。それを皮切りに各大学区に1校ずつ増設され、その後1874年には東京に女子師範学校も設立されました。
スコットは、すべての設備や教材をアメリカから輸入し、アメリカの公立学校で活用されている教授法を師範学校の生徒(先生予備軍)たちに教え込みました。さらに、師範学校は教科書の翻訳、新しい教育課程(カリキュラム)の編成、教員や児童向けのハンドブックの作成なども行い、日本の初等教育に大きな影響を与えています。

もちろん、それだけでは依然教員数は足りないので、前述の通り、寺子屋の師匠などから転身した小学校教員に、各地の師範学校は、順次、新しい教授法について1〜3ヶ月の緊急の現職訓練を提供して対応することになりました。

こうして、明治維新のすぐ後にもかかわらず、明治政府は、国家を上げて教育に尽力していたことが伺えます。しかし、その思いも虚しく、就学率は伸び悩んでしまいます。次回はそれについて考えていきましょう。


主な参考文献
『教育の理念・歴史』 田中智志・橋本美保 監修編著 一藝社 2013
『日本の教育経験』 国際協力機構(JICA) 2003