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めがね旦那の鍵概念<脱線話>

 


授業はコミュニケーション

 <余白>の話題では、「コミュニケーション」の話と繋げてみました。これは大事なことなので、何度でも言いたいのですが「授業はコミュニケーション」なんです。でも、そこを多くの先生は勘違いしています。こんな話があります。「いま、何時ですか」という言葉に対して、「今は9時半です」と答えたとしましょう。一般的なコミュニケーションだと「どうも、ありがとう」ですけど、授業における特殊なコミュニケーションだと「はい、正解です」になるのです。この構造を形式化すると「知っている教師」と「知らない子ども」という非対称な関係性が見えてきますね。これ自体は何も悪いことではありません。教師と子どもの関係を「教育的関係」と呼ぶのですが、教育的関係にはこのような「非対称性」はどうしても存在します。というか、「対等な」教育的関係なんてあり得ませんし、それはもう「教育的」とは言えないでしょう。そもそも、人と人との関係性においても「対等」というのはほとんどあり得ません。親子だって、友人だって、仕事の同僚だって、多少の非対称性は存在するものです。

古代シュメール人の話

 でも、これは絶対に越えられない壁ではありません。つまり、それは「原理ではなくて程度」の話なのです。教師が主導で話をしているようで、子どもからの影響も教師は受ける。これはどういうことでしょうか。例えば、相手の反応によって会話の内容が変わるということは十分にあり得ます。台本がない授業であれば、これは尚更、顕著でしょう。「いま、何時ですか」、「今は9時半です」、「はい、正解です」、「ところで、先生、どうして時計は12までしか数字が無いのですか」と切り返された場合、話題の主導権は子どもに移っていることが明白ですね。もちろん、この質問は大切にしてあげたいです。子どもは「なに、なぜ」の生き物だと言われていますが、そのようなモチベーションこそがまさに「学びたい」というエネルギーになるわけです。

 「それはね、古代のシュメール人という人たちが12を一括りにする数え方を発明したからだよ」
「どうして、12で一括りなの。普通は10で一括りなのに。」
「では、どうして10が普通なのだろう」
「うーん、あ、わかった!指が10本だからだ!」
「ほうほう、では、親指以外の4本の指の関節の数を数えてみようか」
「あ、12だ!」
「12が5個集まると60になるんだけど、これも時計と関係があるよ」
「あ、60分で1時間になる!」
「何千年も前に考えられた方法が今でも使われているのは不思議だねぇ」

教育的な会話

 「教育的な会話」というものがあると僕は思っています。それは、「子どもにもっと知りたい」と思わせるような会話です。そして、これがもっとも大事な点なのですが、それは「全員がそう思わなくて良い」ということです。平等主義が前提になりがちな学校においては「全員に同じ体験をさせる」ことまで平等にさせがちですが、意欲やモチベーションなんて揃えられませんので、そんな無茶なことは考えなくても良いのです。引っかかる子にだけ引っかかれば良いのです。

ここからが本題

 さて、やっと本題なのですが<脱線話>というのは、まさにここまで話してきたようなことです。<余白>のない授業におけるコミュニケーションの時間になされる話というのがまさに<脱線話>なのです。我々の学生時代を振り返ってみても、ほとんどの授業内容はまったく思い出せないにも関わらず、ある日の先生の<脱線話>だけは何故か強烈に覚えているという経験があるかと思います。これは偶然ではないというのが僕の仮説です。

 <脱線話>というのは、話の本筋とはあまり関係性が見えませんが、まったく関係ないということではありません。本筋から脱線しているわけですが、脱線するためには本線と繋がっていないといけないので、多少の関連性はあるほうが自然なのです。

 さらに、<脱線話>には注目すべき点があります。それは「話者自身が楽しんでいる」ということです。こちらの方が本質的だと感じます。つまり、<脱線話>を聞いていて楽しいと感じるのは、その「内容(コンテンツ)」に反応しているわけではなくて、「話者の楽しさ」に釣られて楽しくなっている、ということではないかと考えるわけです。

一緒にいると楽しい人

 「一緒にいると楽しくなる人」というのは確かにいますよね。そういう人の周りにはいつも人がいます。そして、そういう人の特長としては「いつも楽しそう」というのもあるでしょう。「いつも暗い」人の周りに人が集まることがないのは、「人の気分」というのは伝染するものだからです。本能として、人は、そういう人にはあまり近づかないようになっている(もちろん、心配して駆け寄るというのはありますが)。

 「話者の楽しさ」というのも理由があります。それは「この場でどうしても話したい」という話者のモチベーションと関係があります。人は「いま、ここでどうしても話したい話」というのがあります。それは授業をしていると、子どもからも出てくることがあります。そのすべてを取り上げることはできなくても、そういう「キラキラした目」をした子どもが手を挙げていたらなるべく当てるようにしています。なぜなら、そういう話の多くは「おもしろい」からです。そして、これは夢物語ですが、教師と子どもから「いま、ここでどうしても話したい話(脱線話)」がどんどん出てくるような授業は、おそらくおもしろい。もちろん、それを整序する教師のスキルは必要でしょうが、そのような授業はまさに「活発なコミュニケーションの震源地」と呼んでもいいのではないでしょうか。

 だから、<脱線話>というのは、「相手の心に届く」確率が高いのです。そして、そういう話をたくさんできる教師というのを見て、子どもたちは「私もいろいろなことを知りたい」となれば、これはもう教育の目標のほとんどを達成しているのではないかと、僕はそんなことを考えながら今日も<脱線話>のネタを探すわけです。