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足並みを揃えるエネルギー

足並みを揃えることにエネルギーを注ぐ

 学校現場では「足並みを揃える」ことに多くのエネルギーが割かれています。これには様々な要因があるのでしょうが、最たるものとしては「保護者に説明しやすい」ということが挙げられると思います。

 当たり前ですが、学校では「先生や教室を選べません」。保護者が選ぶことができない以上、そこに差があったとしたら「不公平感」が生まれてしまいます。(例えば、「隣のクラスとの宿題の量の違い」というのはよく聞かれる事例です。)これはある程度は仕方のないことです。教師にも個性があるので、全く同じ教育は実現できません。しかし、それでも「揃えようとはしている」という姿勢を持っているかどうかで、相手の印象は変わります。

 つまり、足並みを揃えるということは「教育効果がある」という側面よりも「保護者に対して説明するときに効果がある」という側面の方が強いのです(もちろん、学年団の中にいる若手への指導のために揃えるという考え方もありますが、それにしても、足並みを揃えるが現場では強調され過ぎだと感じます)。
 
 しかし足並みを揃えるには大きなエネルギーが必要です。よくある揃え方としては「授業進度」を揃えるというものがあります。毎週、学年で集まり全教科の授業進度を確認しあって、来週はどこまで授業で教えるかを調整するものです。しかし、先程も書いたとおり、教師には個性があり、各教室の教育実践には違いがあります。それを進度という一つのモノサシで揃えることにどれだけの意味があるのでしょうか。「授業が間に合わない」などの問題にはたしかに対応できそうですが、こんなものは各校や教科書会社によって学習計画が示されているはずなので、それに合わせてやれば問題がないはずです。

 僕の場合、算数の授業では、単元の半分の時間で単元内容を教え切ってしまい、児童の理解度を測るための「形成的評価」のテストを行った上で、残りの半分の時間は理解度の浅い内容を重点的に扱うという授業をすることが多いのですが、授業進度を揃えてしまう場合、このような教育実践も認められなくなってしまいます。
 教育実践とは、そこの学びを主催する教師が、そこで学ぶ子どもたちにあった授業を提案することに価値があるはずなのに、揃えるということをするだけで、その価値を手放すことにも繋がりかねないのです。

 さらに、揃えるということは「低きに揃う」ということも忘れてはいけません。揃えるためには、揃えるためのポイントを用意しないといけません。つまり、形式化して説明できないといけません。そのポイントを増やせば増やすほど、授業の創意工夫の余地はどんどん狭くなっていきます。さらに、授業における余白も消えてしまい、子どもとのやり取りという面での自由度も減ります。授業とはコミュニケーションだと考えている僕にとっては、揃えれば揃えるほどに台本の決まった発表会をするような、「こなす」だけの授業になってしまうのではないかと考えています。